版画と絵画を自在に行き来し、視覚の面白さを存分に発揮する入谷。
独特の模様はもちろん、近年落ち着いて渋く輝くようになった色彩の画面、そして支持体の変化など見どころは多い。
ある光景に内在する空気やエネルギーの流れ、気配。
空間を埋め尽くす行為は奥行きを伴って進化し続ける。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
入谷葉子は、一言で言えばふたつの境界線上に居る作家だと考えることができる。 一つは、まず作品の形態としての在り方。大学では版画を主題としたが、実は絵画あるいは平面領域として引いた視点から制作をしていると言えるであろう。シルクスクリーンとアクリル、あるいは色鉛筆など多様な画材を用いて色とりどりの画面を呼び起こす手法は、版画の限界を知ってか知らずか、あるいは絵画としての領域を侵犯するかしないか、それらのつまらない問題を最初から飛び越えた自由な発想に基づいている。描かれる支持体もバリエーションに富み、現在ではアクリル板やパネル、そして紙に至るまで試行錯誤がくり返されている。いずれも自らの表現にふさわしいと感じるチョイスの末の産物・結果であるから、単にあれこれ欲張って為される仕事では無い。そもそものきっかけがノートの落書きだと言うのだから、やはり手を動かして空間を埋め尽くす願望は強いと言えるだろう。従って版画の技法は用いられたとしても、その前後の手書きの要素こそが入谷作品の真骨頂だと考えることができる。もちろん、全てにおいて入谷のコントロールの下に行われているのだから、細かい描写ばかりにスポットを集めるのは間違っているだろうが。
もう一つの境界線は、実は作品が内包するものである。入谷作品を極めて特徴づけているのは一見して分る通り、画面を覆う奇怪な模様のような描写である。それらはある時は人体の血脈やエネルギーの流れのように燃え盛り、ある時は背景に緊迫感を与え、ある時は無機質な「モノ」としての被写体に有機的な動脈を感じさせる。しかし実は入谷のこの手法は、少しづつ意図を変え、引き継がれていることに気づく。初期の作品の場合、現代的な人物描写に活力を与えるがごとく人体に充満し気を発するかのように描かれているが、その後その模様達は居場所を転々とし、画面における面積は少しづつ減少傾向にある。単に減っているのではなく、効果的に用いられている、と言い換えよう。モチーフにも背景にも力いっぱい描かれていた結果構図が散漫になり肝心な主張が見え難かった点は、最近ではみるみる解消されつつあり、フラットな塗りとの比較で奥行きを生じさせ、さらに色彩の絞り込みは画面に落ち着きと構図そのものの面白さを明確に伝えることを可能にした。まだ発展途上ではあるが、この進化によってそもそものオリジナリティーとエネルギーを失うことなく、より高度な画面構成と信頼性を身に付けつつあると捉えている。話を戻すと、第2の境界線は現在進行形で印象的に表れてきている。先述の通り、以前は画面いっぱいに同レベルのエネルギーが充満した結果、パワーは感じられたものの、画面の中の区切り(境界)は曖昧に感じられた。かろうじて輪郭線がモチーフを認識させていたものの、本当の意味で画面を区切っていたとは考え難い。翻って近作では、明らかにモチーフと背景を区別している。輪郭が、というのではなく、描写方法を変化させ、さらにそもそもの「モノの見方」が変化したと感じられるのである。入谷はある光景をスナップする時(写真を撮らずしても)、一定のフレームの中の構図を優先的に観るのだという。つまり、飛行機や造作物を選ぶのではなく、たまたまそこに存在するものがそれらだったとしても、肝心なのは平面的に捉えた四角い視覚の中の構図であり、(そしてもっとユニークなのは)そこに「存在する」空白(余白あるいは余地)なのだと言う。「在る」ものではなく、「無い」部分を観ていることになる。ここが作品制作の出発点であり、今なおスケッチブックを埋め尽くしたいと思ったスタートラインからの純粋な延長線上で制作していることの強みにもなっている。つまりは、彼女の視点はモノの在る・無い空間の気配、そして構図としての輪郭線(境界線)に向けられている。
静止画としての平面に躍動感とエネルギーを感じさせる作品は、今後の可能性を大きく孕んでいる。今現在のテーマを感じられるとともに、常に動いていくであろう(素晴らしく良い意味での)流動性が楽しみである。