大舩が作り出すのは、単なる平面として事象ではない。そこから生まれる波動は身 体を揺さぶるウェーブとなり、バーチャルな体験を呼び起こす。日本画の新鋭と言わ れて久しいが、彼はもっと広い視野での表現へと突き進む。今回、地下ギャラリーに 現出するのは果たしてどんな光景なのだろうか・・・。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
日本画とか平面とか、あるいは現代美術とか、そんな括りは大舩には必要ないのだろう。彼の視線は常に現状の美術の遥か先に有り、その地平線まで続く道のりを物凄い勢いで一直線に走っている。 「真界」(しんかい)とは、形態としては平面の作品を四方に巡らすことによって生じる作品中の地平線と観客との距離感、その間にあるはずの様々な事象。それらを想像し、感じることによって生まれる空間あるいは世界、とでも言うのだろうか。あるいは「視界のかなた」とでも言うべきか。昨年の個展「心水」での巨大な平面作品は、まるで滝のごとく眼前に立ち現れ、その圧倒的な迫力と宝石のようなディテールで我々を圧倒した。そこで感じられたのは人間の視野に一度には収まりきらない光景とその細部、あるいは作品から発せられる振動であり、波動(ウェーブ)であった。今回の発表作品は少し趣を違え、ギャラリー空間が一つの「部屋」や「箱」のようなものだとすれば、そこに穿たれた「窓」のように存在する。私達はその窓を通して外の世界を見るわけだがそこから見えるのは視覚的に受け取る表面の他に、まるで地球の裏側まで突き抜けて見通すかのごとく、時間と空間を超えた光景を発見することになる。
「インスタレーション(装置的設営)」という不可思議な単語が蔓延してもうどれくらいになるかは知らないが、本来の意味で行われているそれは、どの程度有るのだろうか。例えば立体作品をちょっといい感じに配置したとて、それは「インスタレーション」と言えないのではないだろうか。逆に、大舩の作品のようにそれが単に平面作品を壁に打ち付けただけのものだとしても、そこから生まれる効果や感じられる事象が必然的に目的の一部になる場合、それを「インスタレーション」と呼ぶこともできるのかもしれない。しかしながら、彼の場合は展示が、というより作品そのものの発する影響力がとても強いため、制作段階である一つの場所をイメージしながら作られたとしても、それ以外の場所に置かれても何ら遜色の無い素晴らしい作品に見えるのだ。だとすると、彼は気づいているかは分らないが、実は彼の作品は空間を選ばない。絵画作品が、あるいは平面作品が本来持っているはずの「どこでもドア」的な、瞬時に観客を別の世界に連れて行ってしまう装置的役割を兼ね備えているのだろう。だからこそ、昨年の個展以降、東京へと活動の場を広げ、フランスでも発表が決定している。「どこでも」通用する実力を発揮しつつあるのだ。
大舩の作品はまた、空間だけでなく時間の軸も飛び越える。これらの作品を古典的あるいは現代的と解釈するのはどちらも間違っていないだろうが、そのどちらも余り意味を為さない。「今」目の前に見える事象は今の瞬間に感じられる貴重な体験である。しかし描かれた作品は時間軸で言うと過去のものである。だが、そこから発せられるエネルギーは未来の体験を生み出すための光景である。このように、大舩の作品における時間のベクトルは過去にも未来にも向き、だからこそ、我々は懐かしくもなり、同時に未知の興奮を味わうこともできるのだ。そしてそれは、「今」この瞬間にしか体験できないことなのだ。
日本人に限らず、人間はカメラをもって写真を愛用する。未知の旅先でまっ先にファインダーを覗き、自らの五感を駆使する前にシャッターを押して満足する。そしてそれらの収集された旅行写真を見て、「旅」を実感する。しかしながら、写真から思い起こされる想い出もあれば、写真に写らない事象・現象・心象もある。何か未知の巨大な光景を眼前にした時、カメラは防御本能を満たす上での「楯」のごとく、役に立つ。しかし、大舩の作品はもちろん撮影不可能である。不安と好奇心をかき立てる、「見る」という行為。そこで我々が無意識に感じるべき出来事は、実はあまりにも多い。