neutron Gallery - 足田 メロウ 展 『 メロウ・グラウンド 』 - 
2004/12/20Tue - 29Sun 京都新京極 neutron B1 gallery


今や京都のみならず全国にその絵と名前が知られ渡るようになってきた足田メロウ。 詩画集「歌いながら生きていく」やパフォーマンスユニット「カラノヘア」「ロマ ネスクの犬」など、その活動の全貌は大きく、把握するのは難しい。 今回の企画展はそんな彼の新作絵画はもちろん、様々な分野の人々とのコラボレー ション、あるいはライブペインティング等で多面体としての魅力に迫る。 クリスマスから年末にかけて、絶対に見逃せない好企画!





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  彼はおそらく、京都で最も名の知れたペインターの一人だろう。「画家」という言い方だと日本画から洋画まで範囲が広がってしまうのであえて「ペインター」とした。その本質は、ライブを伴う初期衝動的な制作と、音楽やパフォーマンス、舞踊など他の表現との結びつきによって展開する、という2点にある。いわゆる「ストリート・アート」がまさに路上を拠点とし、市井の人々の共感を得ることによって自身の評価を形成し金銭の授受や作品の売買が容易に行われるものだとすれば、メロウの場合はそのスタンスはあくまで独自のもので、簡単にひと括りにはできない。あくまで作家・足田メロウが存在し、しかしおそらく誰一人として、彼の全ての可能性を知るには至っていないのかも知れない。私が彼の個展をこの年末に企画すると決めた時、それはまず「足田メロウの全て」であるべきか、あるいは多くの作家がそうであるように、今回のために設定したテーマを基に制作させるべきか、考えた。しかし私がそれを決定する前に彼が提示した内容は、「足田メロウとその周辺」的なものであった。つまりは彼のステートメントが語る様に、今までの活動において関係し、影響を受けてきたアーティストとのコラボレート、及び自身の新作をメインとするものである。やはり彼はそうして他人と関係していくことによって絵を描いてきたし、これからもそうなのであろう。足田メロウを語る時、逆説的に、勝野タカシや豊原エス、「カラノヘア」や「ロマネスクの犬」を避けては通れない。それらは全て、足田メロウの一端を表しつつ、私達はそれらを通じて足田メロウの全貌を掴もうとするのだから。
 彼の絵に登場するモチーフは、お馴染みのものが多い。犬、傘(雨)、家、鳥、空、顔、手の平、木、天。よくよく考えれば小学生の絵にも頻繁に登場しそうな、極めて分かり易く、多くを孕んだものたちである。そう、「難しく無い」。これらのモチーフを解読するのに年代物の心理学的解釈を用いるよりも、むしろそれらが多くの人に共感やイメージを持たすことのできるモチーフである、という点に着目したい。つまり、犬や家、空、顔・・・・などそれらはどこにでもあるものであり、いつでも発見できるものである。しかしそれを絵画にされて私達が気付くことは、そういった当たり前のモチーフこそがペインターの無意識を代弁し得るアイコン(象徴)となることであろう。もちろん彼は犬を描きたくて犬を描くのではない。筆は犬の形を追うが、そこに犬が存在する意味は、メロウの感情や心理的状況、及び価値観に由来する。それらが根本的に私達とシンクロするからこそ、表層に描かれる絵に共感を覚えることができるのであろう。空(天)、鳥、傘など「見上げる」ものも少なく無い。この地面から上へ向う構図は画面を安定させる役割も果たしつつ、彼自身のいつも見ている「視線」の方向でもある。彼はぼうーっと空を見上げることが多いのだと言う。スラリとした人物やモチーフが多いのもその表れか。
 先述の通り、今回の企画は大きく分けて二つの要素から成る。まず彼の新作絵画であるがこれは目下制作中でありその全貌はまだ見ることはできない。しかし先日の大阪SUMISOでの発表を見る限り、確実に絵が動いて来ている。彼の特徴的な色使いや構図に少しづつ変化が見られる。それはもしかしたら具象的なアプローチの向こうにストレートに心象が現れようとする前兆なのだろうか。そしてもうひとつの要素である「彼の周辺」では多くの人物が登場する。ライブやパフォーマンスまで、あるいは展示作品として、極めて多彩な顔ぶれが関係するので、とてもこの紙面では紹介し切れない。しかしメロウは絵を描くと言う行為によって表現者たり、異分野における同種の人間達を嗅ぎ分け、そして共にある一つの方向を目指して制作する。それらの果てに吸収される感覚や持ち幅は彼の作家としての針の振り幅を大きくし、自由性を持たせる。彼の「色」は多彩で多くを語るのだが、実は「白黒」で描かれる作品に、彼の骨格を見ることができる。通常は「ドローイング」として認識されそうなものなのだが、彼の場合は色を使うことがそれに当たり、それを使わずして緊張を伴う制作こそ、この白黒作品群なのである。彼の本質をそれぞれに見つつ、この豊饒な「メロウ・グラウンド」を見てみたい。