大学生活をおくるため、毎年多くの若者が京都に集まる。 そんな彼らは一様に京都と言う土地へのイメージを抱き、住んでみてからの現実とのギャップに戸惑うことも少なく無い。 「僕」という一人称で見せるこの写真群に写るのは、そんな他所者としての目線。 京都に住んで3年目、まだまだ入口に立ったに過ぎない。
「京都で暮らしたがぼくはそこにはいなかった」
僕が京都に住みはじめたのは大学一年生のときだ。それから3年が経つのだが、京都で写真を撮影していくにつれて、僕と京都の間にへだたりのようなものがあることに気づいた。
その理由のひとつには京都の地域性というものがあるように感じる。京都という町の古い歴史からくるプライドや、都会でありながら非常に人間関係が濃密で、地域のコミュニティがきちんと機能しているため、それが地元人以外のよそ者へのバリアとなっているという、京都の排他的な側面が関わっていると思う。
だから僕は、京都で暮らして3年目といういま現在の視点で京都という町を見つめて、自分と京都の関係性というものを考えていこうと思い作品をつくった。そこから“京都”というイメージづけられた町とは何なのか、自分はどこまで京都に存在しているのか、自分の町とはどこから決まるものなのか、そのようなことも、表現していけたらと思っている。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
毎年、大学入学を主な理由として全国各地から多くの若者が京都にやってくる。 彼らのほとんどは東京ではなく京都という土地、歴史、雰囲気を好んで選び、 自分がそこで楽しいキャンパスライフ及び「京都」らしい生活を送ることに憧れる。
かく言う私もまた、わざわざ東京から移り住んでもう10数年になろうかという、 外様京都人の一人である。
浦上がここに写し出し、展示しようとする光景はそのような他所者にとっては いささか放っておけないものであろう。 浦上はここでは、写真家あるいは作者としての存在感よりも一人の外様としての視点を カメラを通じて追い求めることに重きを置いている。
従って、浦上の持ち味であるシャープな構図やユニークな色彩感覚は 必ずしも全面的に発揮されているとは言えない。
そのように仕向けたのは私である為、ここで説明しておく。
ここに選ばれた写真に共通するのは、「非・京都」性、匿名性、そして一人称性である。 浦上も私も、一個人として「京都」という名前に付して違和感を覚える写真を選んだ。 なぜなら、御承知の通り、今さら京都の美しいとされる部分を発表する趣旨では無いからだ。 「僕」という一人称は浦上だけでなく、多くの人に当てはまる。
同じ様に「東京」でもそれは語られる事だが、「京都」というイメージは広く日本人に浸透し まるで古き良き日本の残影のごとく敬われてはいるが、それがさして実体の無い、 いやむしろ実体を反映していないイメージであることは、居住3年目にもなれば 当たり前に感じられる事ではある。 しかし「京都」をどんなに否定しようとも、「僕」は京都を愛して止まない。
思い描いたものでは無かったとしても、やはりそこにはこの若者をはじめ多くの人々を 惹き付けずにはいられない魅力が有るのだろう。それが無ければ私もここには居ない。
では、それが何なのかは、個々の思い入れや専門に依る。
あるいは地域にも依るだろう。
浦上(=「僕」)が見たくてたまらない京都など、まだほんの入口でしかない。
しかし、他所者に閉ざされているように見えた門は、実は鍵がかかっていなかったり、 あっけなく通過出来たりもする。そうやって少しづつ前に進む。 浦上の3年目の写真は、そうやって私が数カ月観察している間にも、確実に前に進む。
今回ここに選んだ写真は、あくまで「入口」に過ぎない。 ここには一人の人物も登場しない。居るのは「僕」だけだ。 疎水の辺りの未舗装の小道に、こう書いてある。
「この先止まれ」 「I LOVE YOU」