nneutron Gallery - もりや ゆき 展 - 
2005/3/21Mon - 27Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

ワイヤーを通した陶器の連結作品を有機的に空間に存在させ、自己の内面と環境に よって生まれて来る姿を見せる。今回は5階では窓から入り込む風をイメージさせる 展示、地下では発光する血管あるいは臓器のような、エネルギーに満ちた作品を発表 予定。注目の作家の登場です。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  一見すると植物や有機的なモチーフを土の手触りで表現し、自然の息吹をおおらかに感じさせるように作られた作品群のように見える。確かにそれは間違った見方では無いだろうし、もりやゆきの作品にはそのような有機的なイメージは確実に潜んでいる。しかしあえてその見方を否定せずさらに奥を覗こうとすれば、実はモチーフとされているのは「何か」の具体的な事象では無い事に辿り着く。
  「それ」は時に空間に漂う意識であったり、気配であったりする。また、時に作家自身の内部に展開されるイメージの具現化であったりもするだろう。作家は何かを作り出す時、自らの抱える問題意識に照らし合わせて時と場面に応じて作品を考案し、制作にかかる事が多い。もれなく、もりやもそういった意識を働かせてはいるであろう。それ以外に、例えば場所そのものにインスピレーションを受けて突如として作品を生み出したい願望に駆られることもあるかもしれない。または、季節の移り変わり等、自然の時間の流れに呼応していることも考えられる。つまりはもりやゆきの作品は何処かの場所(場面)と時間(季節、タイミングなど)を必要とし、もちろんのことながら、それを取り囲む環境や鑑賞(体験)する人々を想定している。それらを全て取り込んで初めて、もりやゆきの作品としての発表が形になるのだと思う。インスタレーションと言わざるを得ない理由はそこに有り、立体造形あるいは彫刻という言葉だけでは、足りない様に思える。
  では環境や外部からの情報、圧力その他の入力によって作品の具体性が増すのだとすれば、もりやゆき自身が持っているものは作品の素となる原子あるいは分子構造のようなパーツなのかも知れない。それらがまるで自然界の化学反応のごとく、ある状況、時間、印象、気配等の要素と呼応して何かの形を形成し、作品として眼前に登場するのだ。もりやの作品の主な形態である、陶の筒をつなぎ合わせた螺旋状あるいは植物状のものを見ると、その節々がまるで生物のDNAのごとく見えてもくる。すなわち一つ一つの節が何かの意味を有しており、それの組み合わせ(配列)、色、形状が組織としての意味を有し、構成された全体像が生物あるいは存在としての情報を表しているということになる。しかし「生物」という固体に限定しなくとも、気配や気の流れといった「流体」を表していたとしても不思議は無い。あるいは「概念」や「潜在的意識」のような概念上の存在だったとしても。いや、おそらく作家が意図しているのはそれらを包括しての「存在」なのであろう。具象と抽象を自由に行き来し、見る者のイメージの働きを妨げない、想像の産物としてのもの。
  今回の個展では、5階と地下の両会場を使った発表が行われる。地下では会場の広さを利用したスケールの大きいインスタレーション。そこでは発光を使って、血液の循環する臓器の鼓動のようなイメージが展開される予定だ。5階では明るい会場の雰囲気を受け、小窓から流れ込む「風」を連想させる作品が予定される。もちろん、どちらも「そう見える」だけであって、何をイメージするかは鑑賞者に委ねられる。しかし、地下の有機的、生物的な作品と5階の外的(自然現象的)な作品との対比は、この作家の持つイメージの多様さを示している様で興味深い。まるで作家自身が己のDNAを軽やかに扱い、この地球に存在する自分という生き物と、それを取り巻く環境をおおらかに楽しんで、慈しんでいるかのように。