自分の中から沸き上がる感情、欲望、肉体的な衝動。それらを「モノ」として捉え ようとする時、暗闇に浮かぶ「線(ライン)」のごとく写し出される。有機的でグロ テスクな印象のソレは、しかしながら確かに自分の内部に有る。精神に対する畏怖と 美しさの狭間で揺れ動く。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
とりいもと静かの作品及び発表を上手く説明することは難しい。特に「写真」や「ミクストメディア」で扱われてしまうとしても、本質的に問題にしているのは単なる映像的なビジュアルイメージでは無いからだ。そこには一人の人間という生き物として生きる若者としての苦悩や錯誤が多分に含まれ、切迫した観念すら感じさせる。 とは言えまだ学生であり発表回数も多く無いため、紹介出来る資料上の作品数も限られる。昨年の個展「語細胞を保存する」と、その前提となる「誤細胞」に関してが、彼女の数少ないヒントとなろう。
「語細胞」は彼女にとって己のアイデンティティーを確立させんとする格闘の中から生み出された概念であり、身体、精神という人間のバランスの概念に新たな血脈を発見したかのようなアイデアとも言える。多くの若者、特にモラトリアムの時期における人間は自己の存在を確かめる術が希薄であるため、どうしても「言葉」を必要とする。それによって己を確認し、表現することが出来ると思うからだ。つまりインターネットや携帯メールが殊更に社会問題となる時、その多くはそういった世代による無軌道な暴走が引き起こす事象を指すのであり、あるいは若くなかったとしても、自分自身を確認する・表現する術として過剰にそれらに頼らざるを得ない人々にとって、電子メールは麻薬のような中毒性をもっている。そうでなくても古来から読書や会話によって自己を確立してきたのが人間だ。つまりは言葉=言語無しに、「人間」は存在し得ないとも言えるだろう。単に社会問題としての提起や風俗学的な検証ではなく、人間のDNAレベル(つまりは細胞レベル)で存在する言葉。とりいもとが自己に発見したものとは、このように普遍的な言語との関わりであり、それに頼らざるを得ない人間(何より、自分)であった。しかし、彼女は直接的な表現としてのメッセージを発するものとは違う。あくまで自分の血肉のように感じられる言語、遺伝子の中に見え隠れするような言語細胞(=語細胞)とは、逆に言えば自己を客観的に観察した結果でもある。己の表現欲や主義主張で操られる言葉とは異質なものなのだ。
今回の個展においては、写真としての形態を取りつつ、その展示においてはかなり大胆に構成される。もともと「語細胞」として出て来る以前の、根本的な自己の中の「何か」。欲望、感情、肉体的な本能等・・・それらは言葉にすらならない次元で蠢いている。そして、それをどうにか掴まえて見せたいのがとりいもと静かなのだ。黒い画面に無気味に存在するウナギのような「モノ」は、「それら」がある定形をとりつつある姿と言える。あえて言うなら「線」(ライン)と呼べなくも無いが、元来不定形であるため、「線」と断定するのは間違いである。これらの小さな四角い写真が、まるで人間の「それら」が無数に増殖するかのごとく、びっしりと張り巡らされる。それを見て気持ち悪いと思うか、怖いと思うか、はたまた悲しいと感じるかは各自の自己との対峙構造にも依るだろう。少なくとも気持ち良いとは言えないだろうが・・・。