私たちが知らず知らずに見過ごしている「生」と「死」。
あるいは、無感覚に通り過ぎてしまっているそれら。
殺伐とした世の中だからこそ、命の灯火を見つめて、大切に感じて欲しい。
ストイックなまでに生命の存在を探求する新鋭が初登場。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
日本は確か、世界一の長寿国であったと思うのだが、 だからと言ってお年寄りや子供達に優しい国では無いのは残念ながら周知の事実である。 誰のせいでもなく、いや、誰もが責任を負うべきなのか、 この国の生命倫理は崩壊寸前であり、長寿とは延命医療の産物でしか無いと感じる。 教育、文化、医療、科学、政治、スポーツ・・・ 各分野で盛んに「生涯」だとか「生命」が取り沙汰されるが、超高齢化社会に対する準備も、 国際社会を切り開いて新しい価値を創造する人間の在り方も、さして見えて来ない。 唯一、最近話題と改革に事欠かないのは経済だろうか。 人々の関心は専らお金に集まり、どこか寒々しい。 まだ若く将来に夢を持つはずの少年が、もっと幼い子供を殺す。 少なくともこの日本は、生命を大切に育み、次の世代へと受け継ぐという 生物本来の遺伝子すら忘れたのか、あるいは捨て去ろうとしている様だ。 集団自殺や少年犯罪が単に一過性の社会現象であるならまだ良い。 しかしもっと根本的に、私たちが感じなければいけないのは絶対的な危機であり、 人間というただ一種の生物によって地球全体までが犯されている事実である。 私が常日頃、この仕事をしながら感じて、考えているのは「芸術」の行く末では無い。 この先、人間にとって芸術と呼ばれるものがどれだけ必要とされ、影響を及ぼせるのか。 スポーツや音楽、コマーシャリズムと同様にメッセージをどれだけ発することが出来るのか。 その一点に尽きる。 そして私だけで無く、この時代に表現を志す多くの若者が、 同じ様に感じて、考えているとすればとても心強く、嬉しいと思う。 いや、ひょっとしたら私などよりもずっと真摯に取り組んでいるのかも知れない。
森川穣はとてもストイックな表現を行う。 その根本には生命に対する感覚の希薄さ、社会に圧殺される存在に対する視線が有る。 芸術はそもそもマイノリティーが市民権を得る為の手段とも言えなくは無いのだが、 すると彼の様な「当たり前の」問題意識が既に当たり前で無いという状況を証明する。 彼の見せる行為や作品が新鮮に私たちの心に響くのは、 私たちの身の回りに多くの理不尽や不安や不協和音が存在するからだと言える。 森川はストレートに、「生命として存在する」ことを問いただし、問題提起して見せる。 そしてその発表は、どれも美しい。 その美しさこそが、私たちに哀しみと愛しさを思い出させて止まない。