neutron Gallery - 宮川 真一 展 『 LINK − 関連 』 - 
2005/9/26 Mon - 10/9 Sun gallery neutron kyoto
ニュートロンアーティスト登録作家  宮川 真一 (陶とパンを使った作品)

陶器とパンは、用途は違えど火で焼かれて出来ることは同じ「焼成物」。
それがもし、一つのものとして形作られたら・・・?そんなユニークな発想から様々な「パン作品」に挑んできた宮川が、カフェとギャラリーとの関係も踏まえて新たな「陶とパンの出会い」を生み出す。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 人類が最初に発明したもっとも重要なものは、言わずと知れた「火」である。火は太陽の光の届かぬ夜に明りを灯すことによって獣達を遠ざけることに成功し、狩猟された肉を焼くことによって人類の食生活を大きく変えた。以後どんなにテクノロジーが発達しようとも、この存在無しにはこれからも人類は地球上で生活することはないだろう。そんな「火」を使って、古代人類が発明したのが「パン」を焼くことと、「陶器」を焼くことである。
  文明の違いはあれどパンと陶器は世界中に伝播され、この2つの存在しない国はおそらく見当たらない。日本においてはパンは米食のライフスタイルに大きな変革をもたらし、やがて近代では和洋折衷の代表格ともいえる「餡パン」の発明によって一気に市民権を勝ち取ることに成功した。かたや陶器・陶芸は古に大陸から伝えられて以来、日本独自の文化と呼べるまでに進化を繰り返し、今なお食卓に欠かせないものとなっているだけでなく、芸術の分野においても大きな存在感を示し、常に新しい試みを受け入れてきた。
  陶は土から成る。パンは小麦をはじめとする穀物から成る。原材料は違えど、窯で焼いて出来上がること(焼成)は同じである。しかし、それを一つのものとして制作しようとする者は未だかつて現れなかった。なぜならパンは食用であり、陶器は実用あるいは観賞用のものであって食べるものではないからだ。食器と食材は台所での距離は近くても、本質は全く異なるものなのだから。そんな両者の「関係」を壊そうとする、いやもっと縮めようとする者がここに登場する宮川真一である。
  宮川は京都の伝統的な陶芸を幼い頃から身近に感じる環境にあり、必然的に陶芸にそして窯に向かうようになった。そして大学3回生の夏から翌年の春にかけて、アメリカのミシガン大学美術学部に留学する。おそらくここで技術だけでないヒントを得たのだろう、現在の制作の発端となる陶とパンとの組み合わせによる初作品「焼成」は、この年の9月に制作されている。ここでは円形で深さのある皿の「脚」の部分にパンが使用され、最初の邂逅を果たす。以後、黒陶土の箱のような物体からパンが破裂せんと飛び出る「What's coming out?」を経て、2002年の個展「firing」ではギャラリーの壁面に夥しい数のパン作品(菓子パンや惣菜パンを模し、一部に陶を使っている)をずらりと揃えて見せた。それまでは器としての役割を固持してきた陶が、遂にパンと主客逆転した瞬間でもあり、何より作家の制作の喜びが観客に見事に伝わった点で評価に値する。彼の焼くパンは水分を極力少なくして焼くため腐りにくく、食べられない。しかしその作品を手にとると、人は驚きと食欲を隠せないだろう。そして2004年の個展「My Studio」では再び陶を容器に、パンを自在な表現を可能にする素材として見事に操り、作家の工房を再現して見せた。
  今回、宮川がイメージするパンと陶との関係は、ニュートロンにおける展示という前提によって大きく方向付けられる。すなわちそれは、カフェと隣り合わせのギャラリー空間においては「食」(だけでなく衣食住=日常の生活)が扱われる場面のすぐ横に(しかも注視される壇上に)ギャラリー(非日常の空間)が存在するという関係性において、宮川は自らのテーマと同質のものを見いだすことが出来る。「食」は人類の文明において限り無く発展し、時に異文化を理解する手段として、喜びを与える手段として存在する。かたや芸術もしかり(のはずだ)。両者のコラボレートに秘められる可能性は、大きい。