ニュートロンアーティスト登録作家 大西 康明 (インスタレー ション)
ブラックライトを使ったシリーズですっかりお馴染みになった作家が、 本来の「立体造形」あるいは「彫刻」としての境地をさらに切り開く。 明るい展示室内で見せるのは、はたして・・・? 実験精神に溢れたインスタレーションに注目!
gallery neutron 代表 石橋圭吾
昨年の11月に個展を開いて、初めてブラックライトを用いた「動き」のある展示を見せた大西のその後の活動は実に充実している。それ以前は光を「投影装置」として用いていたのに対し、映し出される光景に動きは見られなかったのだが昨年以来の「restriction sight」では光は物体そのものと同化し、ブラックライトの紫外線のみに照らし出される青暗い空間において物体を認識する信号的な役割を果たしつつ、その「運動」をはっきりと知覚させることに成功した。
そもそもこの作家の出自は鉄の彫刻である。それがふとしたきっかけでグラインダーによる火花を写真で捉えた「闇事」を発表して以来、一気に「光」によるインスタレーションや写真作品に傾倒していく。インスタレーションは空間を伴う3次元、写真は平面的な2次元であるからその両者の違いを作家は上手く利用しつつ、どちらも現在の制作にかかせないメディアとしているのは特徴的である。単なる記録撮影に留まらず写真作品そのものが印象的な構図と削ぎ落とされた被写体(映っているのは光だけ)によって類い稀なるグラフィックイメージとしても評価されているのは、必然的とも言えるが興味深い出来事でもある。
では大西はもはやインスタレーションと写真によって視覚的な問題を考察することを掘り下げているからと言って、彫刻作家では無いのかと言えば、そうとも言えないはずだ。彼がグラインダーやレーザーポインターによって浮かび上がらせた光景はもともと「存在」する物体や空間の表層をスキャンした行為の結果であり、蓄光シールによって近未来的な立体展示を見せたかと思えばそれは単に積み上げられた空き箱であり、その「存在」はどちらも否定できない事実として残る。さらには「restriction sight」シリーズにおける様々な試みは、「動き」を伴った立体造形に他ならず、作家は視覚的な問題意識を口にしながらも本質的に試みているのは紛れも無く「存在」を認識する行為であるはずだ。それこそが、例え木や鉄を使っていなくても空間に屹立し、あらゆる角度から見られようとする彫刻という「存在」の醍醐味と深く関係し、今なお大西が空間に物質を存在させようとする理由でもあろう。私達は時に光に惑わされ、魅了されるが、そこだけに目を奪われてしまっていては夜景を眺めるのと同質である。しかし、大西の用いる光は私達自身の知覚を限定しながらも注意深く働かせる装置として機能するからこそ重要なのであり、結果としてその光は展示を見守る私達の脳内を覚醒させる程の働きをする。
そんな光を、今回は使わない。このあからさまで逃げ場のない展示空間を閉鎖して暗転するのは作家も私も最初から考えてもいなかったのである。ここで行うべきは、今まで用いた光を用いず、展示室本来の照明装置によって明るく照らし出される状況での実験的発表であると二人とも認識している。空間の中に渡されるロープを際限なく往復する「物体」と、それに付けられた数種の糸の動き。それは一切の演出を剥ぎ取られた姿でありながら、何かに見立てることによって想像力をかき立てもするだろう。しかし、ここに「存在」する光景は本質的に、ありのままであってそれ以上でもそれ以下でも無い。大西にとってこの試みはこれまでの演出方法を用いない事によっても緊張感が漂うが、それは必然的に「存在」する出来事がどれだけ雄弁な彫刻たるか、に影響するだろう。