ニュートロンアーティスト登録作家 宮永 愛子 (立体、インスタレー ション)
消えて無くなるナフタリン、かすかな音の響きを残す陶器。
様々な素材を用いながら、目に見えない時の流れやものの存在を常に感じさせ、私達の生活の中にささやかな一時停止をもたらす。美術館や海外での発表も続く気鋭の作家が今年も登場。ニュートロンでは実に4回目の個展となる今回、見せる新たな試みとは。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
今年4月の個展「非在の庭」(アートスペース虹 / 京都)の「そらみみみそら」という作品において、宮永愛子はようやくナフタリン作家という肩書きを払拭したかのように思える。いや、本人はもともとそのような呼称など当を得ていないことを知ってはいても、さりとてこの作家を一躍日の当たる場所へと押し上げたのは一連のナフタリンシリーズに他ならない。考えてみれば「ナフタリン」は作家にとって一つの素材に過ぎなかったはずが、その珍しさもあって代名詞のように使われるに至ったのであろう。しかし前述の通り、作家の出自である陶器を用いた「そらみみみそら」において見せたのは(正しくは「聴かせたのは」)釉薬による「ひび割れ」のかすかな音であり、あるいはそれを聴こうと耳をそばだてる行為そのものでもあった。この発表をもって初めて、宮永愛子の表現の本質が「素材」ではなく作品によって生まれる「別のもの」だとはっきりと認識できた方も多いのではなかろうか。
それはつまり、宮永作品が関係する3つの時間に秘められていると思う。
第1は、シリカゲルやナフタリン、あるいはひずみによって陶器の変化する時間。これは周囲の湿度や温度によっても変化するものであり、それぞれの「物質」が持つ時間でもある。私達は宮永作品を見る時、いつもこの時間に集中しようと心掛ける。しかしそんな私達にも時間は流れる。つまりそれが第2の時間=日常の時間であり、1分1秒狂うことなく過ぎ去る貴重なものである。そんな頑固な時間のおかげで、私達は第一の物質の時間に身を任せることはなかなか出来ない。なぜならそれらの持つ時間の方が、私達の身の回りの時間より遥かにゆったりと、静かに流れるからだ。そしてもう一つ、大事な時間がある。それこそが第3の時間であり、宮永愛子が作品として生み出したストーリーの持つ時間である。ナフタリンのシリーズのどの作品も、作家による印象的なタイトルが付けられ、その背景には詩が存在する。「まどろみがはじまるとき」ではサラリーマンやホステスなど、年令・性別・職業を想定した靴を並べ、それらが別々に持つ記憶や時間を私達に感じさせた。大山崎山荘美術館でのそれぞれの作品は、モネやドガ、クレーによる名画の持つストーリーと関わり、その時間を現代に蘇らせるがごとく、見事に「コラボレーション」を行ってみせた。そこに流れる時間はまさに3つの時間が繊細に複雑に絡まった濃密なものであり、その贅沢な時の流れは私達の普段の生活時間において「止まって」いるかのごとく、存在した。
今後、宮永が扱っていくであろう可能性のある素材は数多い。翻れば大学時代に手掛けた葉脈も、今でこそ見たい素材だと感じる。光、水、音、風・・・自然の現象とかたや化学物質との関わりによって生まれる作品は、私達に3つの時間を提示し、秘められたストーリーを思う豊かなイマジネーションを求める。大切なのは「もの」ではく、私達の身の回りにある様々な「もの」が、私達と共に体験してきたこと。もしかしたら「もの」たちは、私達人間よりもずっと多くの事を知っているかもしれない。