ニュートロンアーティスト登録作家 大和 由佳 (平面・インスタレーション)
今年、銀座のINAX GALLERY 2での個展においていよいよ本格的に評価を高めつつある期待の作家が二年ぶりに登場! 私個人の感情や他者との関係は自己の内面で増幅し、やがてドローイングやインス タレーションに昇華する。 今回はいつもとは少し違った手法でその大きな広がりの一端を垣間見せる。 美術を通して「私」の存在を改めて問い直し、静かなる波紋を生み出すだろう
gallery neutron 代表 石橋圭吾
愛知県出身、武蔵野美術大学造形学部油絵科を経て京都市立芸術大学大学院美術研究科修士課程修了という経歴を持つこの作家は、現在は埼玉に居を構えて生活している。京都という場所にはたった2年しか居なかったにも関わらず縁あってニュートロンでの個展はこれで3回目となるが、それは一重に彼女の作り出す作品世界の素晴らしさと、何処に住もうと何処にも拠っていないと思わせる様な独特の佇まい=世界と自分の関係のユニークさ故であると言ってもいい。昨今、「ルーツ」という言葉が使われて喧しいが、日本人に限らず今の世の中において民族・文化的アイデンティティーを見つめなおす試みはもはや珍しくもなく、ともすれば愛国心の問題ともぶつかってややこしい。ただし日本人は持って生まれた「柔軟さ」と「無神論」によってギリギリの所で笑いに変えてみたり、重苦しい話題を軽く茶化してみたりもする。美術の世界においてアジアの主流は政治的メッセージや批判を伴うものが数多く、そういった作家は美術を通じて世の中を変えていこうとする姿勢が強く出ているのだが翻って日本では、極めて私個人的な趣味の領域から、あるいは身近な生活の範疇から表現に結び付けるものが大多数である。これらはかつて言われた「個性」重視の結果なのかは不明だが、現代社会においてどれほどの需要を伴っているかと言えば、心もとない。私個人であろうと社会の中の一員としての経験と自覚が無ければ、それは私たちの住む世界に影響を与えることは難しいのではないか、と常々考える。
大和が作り出す世界(景色)は抽象的で有機的な光景でありながら、実はそれは社会性も私個人としての感情も孕んだものであると思える。先述の通り「寄る辺のない」立ち位置は、狭いグループにおける自己現出よりも茫洋とした世界において自らの存在を導き出す術としての表現を可能にし、究極に個人であるとの選択はまた同時に他者(=社会)との関係を浮き彫りにもする。つまり彼女は「何か」に属する事を意図的に排除し、大和由佳という名前を持つ一人の人間として、ここに登場する。美術作家という肩書きさえ、ある意味では窮屈なものとも言えようが、大和自身はそれを否定的な意味だけでは捉えていないようだ。その中で視野を狭くさせられるのも、あるいは外から声高に美術の甲斐性の無さを叫ぶのも本意では無い。ゆっくりと、静かに美術の本流に浸透していきたいとの思いがある。
だからこそ、究極の私個人としての美術はギャラリーという空間を通じて大きな社会性を持つ。彼女が日常的に感じ・心に刻まれた出来事や人への思い、自分という人間の存在感はドローイングによって図面のごとく起こされ、やがて折に触れてインスタレーションという形態に現れる。連なる山脈や水の流れ、鳥の舞いはそれを内在させる全ての人の心に響き、やがて別の景色を生もうとするかも知れない。大和の作品はどの時点においても完結するものではなく、ある時点での結晶とも呼べるだろう。それはまた熱せられれば溶けて液体にもなり、蒸発して霧散することもあろう。しかしまたある時には冷えて凝固し、形を取り戻す。そうやって大きさや形態を変化させつつも、この世に生きているという痕跡はどこか残そうとしている、と言えなくも無い。今回の展示形態を何と呼ぶかは各自の認識による。しかし、限定されることから距離をおくために作家が選んだこの形態によって、「それら」はこの空間から外界へと繋がり、きっと貴方の心の中へと続いていくはずだ。