neutron Gallery - 入谷 葉子 展 - 『 Home 』 
2007/2/19Mon - 3/4Sun gallery neutron kyoto
ニュートロンアーティスト登録作家 入谷葉子 (平面)

版画と驚嘆のドローイング技法で時空の歪みを生じさせる入谷葉子。 自らの転居の体験を基に「時間を超えて空間を共有する」事に迫ろうと試みる。 動物も人間も、「家」「家族」「住処」を必要とする生き物である。 画面の中に違和感と不安を覚える時、そこには何が存在し、何が存在しないのか? 注目の作家の本質的表現がいよいよ明かされる?!乞う御期待!





comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

  入谷の作品を版画と呼ぶか平面と呼ぶか、まずはそこで意見が分かれるかもしれないが、本質的に版画であって、結果的に平面であると言ってみてはどうだろう。入谷による特徴的な線描(ペイズリー柄のような多彩な描き込み)にも焦点が当たりやすいが、それもまた一つの要素でしかなく、シルクスクリーンによるイメージの重なりと相互作用を及ぼしつつ、画面の中に奥行きや違和感、情報の錯乱を生じさせる手段なのだと理解すべきだと感じる。今一度、入谷作品の本質とはモチーフのユニークさや描写の面白さに隠された部分にこそ在る、と言いたい。
  では本質的に版画であるとは、どういうことだろうか。版画とは「版」を基に複製を可能にする技法であり、それは一枚の作品としても、あるいはその画面の中におけるイメージにおいても、である。入谷作品は制作年によって空港、公園、猿山などのモチーフがそれぞれのシリーズとして登場するが、いくつかの作品においては同じ版が繰り返し刷られ、あるいは一つの版を色を変えて刷って全く異なる場面を想起させたりする。「写真」の複製はオリジナルのコピーに留まるのに対し、入谷作品における版画の複製性は一つのイメージをがらりと変化させる為に、あえて同一の版を用いているように思える。ならばどうして、そんな事をする必要があるのか?その答は常に、彼女の作品の中に用意されている。
  2005年のニュートロンにおける猿山シリーズ以降、動物をモチーフにした連作が続いた為、見方によっては単に「動物もの」を制作している作家だと捉えられていたかも知れないが、実はその動物達が存在する「場所」、「場面」こそが重要なファクターだったのである。今ここに、入谷作品の根幹がようやくはっきりと認識されるかも知れない。それは遂に明かされる?パーソナルな記憶と今なお感じる違和感から生じた「時間と場所を共有する概念」が、ずばり新作個展のテーマそのものだからだ。
  もちろん、今までもそうだった。空港であろうと猿山であろうと、それは時間と空間の揺らぎ、不安定さを意味する場面であったのだが、必ずしもそれは理解されたと言いにくく、むしろ空港においてはメカニカルなモチーフとそれに絡まる有機的な線描が評価され、猿山においては動物のユーモラスな描写とアイデアが面白いとされただろう。もちろんそれらの見方は間違ってはいない。しかし今回は、作家が自らの記憶の中から2匹の犬を登場させるにあたって、完全に個人的な場面に転換される。それはどこの家にも起こりうる出来事、登場人物(犬も含めて)、場面であるのだが、それらこそが、入谷作品を通じて私達が真に発見する感覚への導入の役を果す。
  自分がそこに「在る」ということは、何をもって証明されるのか。はたまた、そこに「居た」ことは何が物語るのか。動かない「場所」と移り行く「時間」。この2つの軸を絶えず意識しながら、入谷葉子はイメージを刷り、重ね、色を選び、そして線描を施す。その過程において奇妙なシンクロニシティーと、当然の違和感を感じながら。そしてそれは私達の目に映り、いつしか既視感すら漂わせるだろう。「家族」、「家」、「自分の居る場所」は永遠に入谷のテーマであり続け、それはまた、同じ時代に生き、同じ日本に住む私達にとって、きっとすぐ傍らの出来事なのだから。