neutron Gallery - フジイ タケシ  展 - 『 SHAVE 』
2007/4/30Mon - 5/13Sun gallery neutron kyoto
ニュートロンアーティスト登録作家 フジイ タケシ (平面)

旅先で出会った壁の記憶、壁が記憶した歴史としての記録。平面という二次元の領域に、時間・空間・物質の要素を塗り重ね、削り取る。不毛にも思える行為の果てに残るのは、果して作家の意図なのか、現象なのか。常に脳裏に浮かぶ残像を追い求め、絵画表現に一石を投じる発表が又しても!





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 人はなぜ古いものに惹かれるのだろうか。例えば廃虚の荒涼とした佇まいの中の何とも言えない郷愁と背徳感は、まさか新築の建造物では比較にならぬ程の、セクシーさを伴っている。あるいは箪笥や押し入れの中でいつの間にか存在を主張しなくなった過去の思い出の品々は、ふとした瞬間に掘り起こされた時、恐縮しながらも、主人に愛された当時の面影以上の魅力をアピールしてくるではないか。
  不思議な事に、建物や道具、部屋といった人間の身の回りの環境や物は、人がそこで暮している間には日々痛みを負わされているにも関わらず、活き活きとして見えるものである。しかし、人間がそこから去った途端、それらは寂寥と失意の底に沈むがごとく、一気に年老いて、埃を冠ってしまうことになる。家や建物は人間がそこに入居することによって初めて呼吸をし、輝きを放つのである。物や道具は人間に使われることによって、役目を果すのである。つまる所、人間の用が済んだそれらは、時間と自然の作用によって緩やかに朽ちていくのみなのだが、その最中、偶然にも私達人間が惜別の眼差しを送る時、そこに美が発見されるのである。
  フジイタケシはまさに、物や空間が纏ってきた歴史、自然に被って来た傷、さらには人工的に加えられてきた工作、それらを全て背負った「もの」としての存在を自身の表現によって再現しようと試みる。大学では洋画という領域にて制作を進めたものの、初期の発表には絵画としての作品は少なく、塩化ビニールのパイプ(水道管のイメージ)の配列による奇妙な立体絵画、そこから展開したインスタレーションなどが代表的なものであった。2002年のneutron B1 gallery(新京極当時)での初の企画展からしばらくは、彼の作品は「物」としてだけでなく空間や光といった複数の要素を盛り込んだ「装置的設営」としてのものが続いた。それらは体験型のアートとしても魅力的ではあったが、一方で作家の指定する位置での鑑賞、決められた視点からの印象は決して「そのもの」(彼が経験したはずのオリジナル)を超えることは出来ないばかりか、美術として素材や技術に対する掘り下げが疎かにもなる結果となった。
  そこで彼は2005年以降、それまでとは打って変わって「平面」という極めて狭い領域に、自身の求める物を探す決意をする。思えば彼が見た光景は主に視覚からの映像的なものであり、彼が制作を通じて再現ないし昇華したいものもまた、視覚から生じるものであるはずだ。だとすれば二次元またはそれに近い平面という制約の中に、彼が求める時間(刻まれたもの)、空間(影響するもの)、そして物質としての存在感を全て塗り込めることは至難の業であり、ストイックに目指すには充分すぎる程の目標でもあるのだろう。
  彼が画面に塗り、重ね、削り、また塗り重ねることによって見えて来る景色は、長い歴史を相手にすれば瞬きの間もないくらいの短時間によるものでしかない。しかし我々の想像力は、彼の一見不毛な行為によって大いに掻き立てられ、やがてそこにあるはずの無い架空の歴史、ストーリーを読み取ろうとするかも知れない。いや、そもそも旅先の街角の薄汚れた壁にどんなストーリーがあろうか等、想像でしか思い描けない事なのだから、何を見るかは自由である。フジイタケシが自らの身体をもって感じた存在の希薄さ、ちっぽけさは、人間の想像力(イマジネーション)と創造力(クリエーション)を生み出す原点に直結する。