neutron Gallery - 鈴木 宏樹展 『遺失物拾得』-
2008/1/29 Tue - 2/10 Sun gallery neutron
ニュートロンアーティスト登録作家 鈴木 宏樹 SUZUKI HIROKI

現代に生きる / 存在するとは何によって証明可能か、いよいよ表装か らリアルに矛先を向ける彫刻界の異彩にして注目の存在。
従来のフェイクとリアルの関係性から、近作では自身に代表される人 間の吐き出す痕跡をテーマに、グロテスクともエロティックとも言える 物体を作り上げることによって、逆説的にリアルを感じさせようとする。




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ニュートロン代表 石橋圭吾

 2006 年7月個展から約1年半。前回の個展時には「この男は将来の日本美術を背負っていくかもしれないダークホース的存在だ」と書いたのを覚えているが、今や本名馬を追う「対抗馬」くらいにも思えて来た。この1年半の地道な制作とその裏側の葛藤は作家を一回り大きく変貌させたのは間違いなく、この時代における彫刻表現の一翼を担う度量が備わってきたとさえ思える。

 それはなぜかと言えば、最大の理由には彼が扱うテーマの変化が挙げられる。鈴木宏樹と言えばフェイクファーや雑誌・広告等の印刷物のコラージュ、華美な装飾など、いわゆる「表装」とその裏側(リアル)がテーマであった。それらいかにも現代的なモチーフを、彼一流のユーモアとシニカルな視点で軽やかな彫刻として提示していたのはつい最近の話である。例えば前回ニュートロンでの個展においても、実は段ボールの塊でしかない物体に大理石やコンパネなどの「模造シート」を貼り(しかもそれらは表面がいかにも下手な具合に貼られており、近づけばすぐにフェイクと判る)、美術ギャラリーという空間においていかにも意味ありげに転がしておく、というものであった。人を食った様な力の抜け具合と物事の存在の本質を見抜かんとする眼を感じさせる発表で、評価も上々ではあったが、その後の彼の制作は一変する。

 年明けて2007年に入ってから各地のグループ展で発表された作品は、従来になくグロテスクで内向的な側面を際立たせたものたちであった。それもそのはず、彼はもはや「表装」ではなく彼自身を含む人間という存在(リアリティー)及びそれらが成り立つ事とは何かを探るべく、手始めとして(人間が)排泄する唾液や汗、匂いなどの要素を彫刻へと取り込もうとしていくのだった。人間が生み出した文化としての表装(例えばファッションやインテリア、何事にも付加される装飾)と排泄物とは全く対極に位置すると考えられるし、後者はどうしても汚い / 醜いなどのイメージが強いため、美術作品数多しと言えどもなかなかテーマに扱われることは少ない。だが鈴木宏樹にとってそれは避けては通れない道として眼前に横たわっていたのであり、大量購入した中古の靴下に自らの唾液で溶かしたチョコレートを塗り込んで固めていく行為はやがて何かの像を結び、異形であるとは言えそれこそが彼自身の生み出したリアリティーのある存在だと信じるとともに、それは即ち「存在した」と確信できることは、「自らがそこに存在したこと(=痕跡)を証明すること」ではないかという、逆説的ではあるが切実なテーマへと移行している事を感じずにはいられないのだった。

 そして2007年秋に岐阜で発表された発泡スチロールの溶かされた作品、血まみれの肉片の山積のように見える作品を見れば、直接的に素材として自己の排泄物を関与させなくても、無機質な素材の塊に何か作為を加える行為は、同時にイメージの手助けを借りて有機的なフォルム / 存在へと変化させる事なのだという手探りにも見える。それは今回の個展においても同様で、壁一面のデジタルドローイングと会場中央の立体はそれぞれは無機質な素材から成り立つが、そのフォルム、印象は匂いが充満するかの如くグロテスクともエロティックとも捉えることが出来よう。そしてそこには鈴木宏樹が敬愛する作家へのオマージュも含まれてはいるのだが、あえてここに書くのはやめておこう。会場で、ご自身の目で探って頂きたい。

 彼の「存在を確かめる旅」はまだまだ始まったばかりではあるが、どうやら順調の様である。いかにテーマが生や性を扱おうとも、何故かユーモラスで憎めないのは彼の作家としての資質の現れか。京都市立芸術大学大学院を修了する(予定の)本年、更なる飛躍が望まれる一人である。