ニュートロンアーティスト登録作家 マスジョ MASUJYO
円い画面は永遠の繰り返しと日々のどうどう巡りをあらわし、鏡は古(いにしえ)の時代と現在を繋ぐ窓として、削り模様を彫り込まれる。
そして砂丘の砂は、全てを取り払うため、洗い流すために。
神話における寓話性・宗教性と現代の感覚を両手に、この時代に生 きる一女性としての苦悩や願いを描くマスジョ。新たな素材を手に入れた彼女の、待望の個展をお見逃し無く!
ニュートロン代表 石橋圭吾
マスジョの本名は升田祝子(ますだのりこ)と言う。鳥取県の出身である。この2つの事実は、彼女の作品においてとても重要なファクターである。祝子という名前は珍しいだけでなく、親の祈りにも似た宗教的な意味合いを感じなくもないし、鳥取には言わずと知れた砂丘があるだけでなく、「因幡の白ウサギ」に代表される数々の神話の舞台でもある。マスジョの作品世界が先祖代々受け継がれてきた神話や伝承にインスピレーションを受け、かつ現代的な感覚を持ち合わせるのは決して偶然では無いし、彼女の名前が運命的であると考えても過言ではないだろう。2001年の個展のタイトルは「白いお祝い」、2005年は「イザナミ」である。イザナミはイザナギとともに生まれ、国産み・神産みにおいてイザナギとの間に日本国土を形づくる多数の子を設ける。出雲という地名はイザナミの美称、稜威母(イズモ)からきたという説もある。すなわち彼女の出身地にほど近い地域である。そして2006年には「スナニナミダ」、今回の個展は「スナノオンナ」である。これはもう、確信犯と言えるだろう。
それだけでは無い。マスジョの作品そのものが古来からの伝記と現代の生活を繋げる役割を果たそうとしている。平面絵画作品や鏡を削った作品は共に円形で、本人によれば「普遍的で象徴的なイメージ」であり「永遠のどうどう巡り」の世界を表している。だとすればやはり、そこに描かれている世界は今の世とも古(いにしえ)の世界の出来事とも取る事が出来るし、あるいは未来の肖像にも成り得ると言えよう。そこに描かれるのは抽象的な光景ではあるが、一貫して女性の視点から捉えられた苦悩や祈り、癒しの願望であって、まさに生みの母であるイザナミの記憶であり、現代に生きる一女性としての実感であり続ける。円形のランバーコアという板材に岩絵の具、顔料によって描かれる技法は日本画的である一方、膠(にかわ)の代わりに定着剤としてカゼインという乳化剤を使っているが、それはマスジョがそもそも壁画を専攻しており、その分野においてカゼインが良く使われることに由来する。壁画というのもまた、古の美術を連想されるではないか !
一方、近年特に制作数の多い鏡の作品は、もちろん全て円形であるのだが、そもそも鏡は古来中国から伝わって以来、権力の象徴でありこの世とあの世を繋ぐ神聖な役割を果たすものとされて来た。西洋ではギリシャ神話のナルキッソスの物語に池の鏡面が登場し、自らの美貌に恋する彼の様な人物を「ナルシスト」という語源にもなっているし、グリム童話においては「鏡よ鏡よ」のフレーズですっかりお馴染みの、呪術アイテムである。その鏡こそ、現代においてもその神秘性と実用性をしっかりと兼ね備え、乙女の祈りを受け止めるに相応しい支持体である。鏡面にマスジョが彫り込む光景は、それ自体が鏡に映ることによって既に表裏の世界を意識させ、この世とあの世の窓口である鏡を改めて気付かせるだけでなく、私達の日常に潜む不穏な気配や穏やかで些細なストーリーを記憶し、また再生するかの様である。私達はそのような鏡に自己を何気なく投影しつつ、あちらの世界へは絶対に行けないことを知り、さあ今からこちらの世界をまた生きるのだ、と思うしか無いのである。 そして最後に、砂である。鳥取砂丘には一度だけ行ったことがあるが、日本において砂漠と呼べる地帯はおそらくそこだけであろうし、その荒涼とした砂の広がりは湿潤な日本においては違和感すら覚える。足元を砂に取られ、歩くにも歩きにくく、でも何とか海辺まで辿り着こうともがく様は、所詮たいしたスケールでは無いのだが神の手の中で遊ばれている感覚に近いのか。砂はマスジョにとっては日常的な存在であり、生きる上において何らかの意味を有すると思わざるを得ないモチーフだったのだ。
砂に埋まる鏡は、果たして「埋まっている」のか「埋められている」のか、それとも「掘り起こされた」ものなのか。ふと、鏡の向こうの自分をいつもとは違った角度で見てみたくなる。