ニュートロンアーティスト登録作家 中比良 真子 NAKAHIRA_MASAKO
「Art court Frontier」や「Kyoto Art Map」など、関西の若手選抜展においてことごとく高い評価を得る作家が、2年ぶりの待望の新作個展に挑む。
女性や植物、水などを得意なモチーフとするが、一貫して「描かれていない」背景やイメージの広がりが、観る者を現実と想像の狭間へと誘うように・・・。
今回は水面に映る景色を題材として、実像と虚像に日々の心象を重ねて描き出す。
ニュートロン代表 石橋圭吾
2006年の5月、KYOTO ART MAPでの個展以来、実に約2年近く経過して、ようやく中比良の新作個展を開催する事が出来る。これをブランクととらえるか制作期間と理解するかは評価の 分かれるところであろうが、かねてより若手作家の中では注目を浴びてきた存在だけに、「ようやく」と言われる事の方が多いであろう。私自身ももちろん、待っていた。
今までに中比良の作品をどこかで見たことのある人は、必ずやその当時の作品のイメージを強く持ち続けていることだろう。例えばプールの中の人物像を描い た「WATERING 」(2002/ノマルエディション・大阪)では、光の屈折によって揺らめく色彩の中に存在の不確かさを見たであろうし、続く「Out of Bounds」(2003/CASO・大阪)では浴槽に浮かぶ女性を美しくも儚く描いてみせた。色とりどりの花が女性から生える「blooming」 (2004〜5 )をニュートロンでの個展や各地のグループ展で見た人は、奇抜と繊細が同居するファッショナブルな感性を感じ取ったと思う。一方で女性画以外にも 「Over there」(2002)のような遠近法を効果的に取り入れた風景画や、「bird eyes」(2006)のようにスケールの大きな鳥瞰図も印象深い。一般的にはモチーフに女性が描かれているシリーズの方がファン層が広い様に感じるが、 両者を「人物画」と「風景画」に分けて論じてしまうのは誤りである。
中比良が描こうとするものとは。一見して分かりやすいモチーフや親しみやすい色調・構図であるおかげで、鑑賞者にとっては中比良作品は具体的でストレー トだと感じる人も多い。しかしそうすると、上記の様なシリーズにおける展開の違いとは、単にモチーフやテーマの違いでしかないことになる。本当にそうだろ うか?全ての作品に通じるものは無いのだろうか?
もし私達が、どの中比良作品においても、ある法則に基づいて作品を見てみたらどうだろう。それは「描かれていない部分を見る」という簡単な法則である。 彼女の描く絵は必ず背景がシンプルで、ほぼ単色に近い。それでいて迫力のある画面構成、印象的なモチーフが全面に出てくるから、誰でもその「描かれてい る」ものに目を奪われてしまう。中比良が描いた絵は背景(あるいは余白と表現することもできる)を含む画面全体であり、そこに物理的に絵の具がどう載せら れているかに関わらず、必ず意味があり、余韻があり、その背景(余白)無しには絵が成り立たないことに気付くのではないか。言語表現に置き換えれば散文詩 あるいは短歌のように、作家が用意する事象はシンプルで僅かである。音楽に例えるなら、極めて少ない音数で繰り返されるリズムに、印象的なメロディーが浮 遊するミニマルテクノやサウンドコラージュあたりが近いかも知れない。つまり、その枠の中に登場する文字や音といった要素は極めて少なく精緻でありなが ら、そこに足りない(使われていない)何かを鑑賞者・観客が持ち込むことにより、世界観は一気に拡大し、実に感動的(エモーショナル)な表現になり得る。 中比良絵画に描かれているものは普遍的で私達の日常に根ざすものであるからこそ、意図的に描かれていないものとは、作家と時を同じくして私達が感じ得る様 々な感情や想起する記憶など、明瞭で単一では無い事象だと言える。そう考えればどの作品も、私達が何かを「持ち寄る」ことをしなければ、単に壁に描けられ た1枚のキャンバスであり、背景でしかないのだろう。
今回の新作のテーマは風景における「鏡面」であり、そこに映るものである。ここでも描かれていない部分にこそ、私達の目を向けてみよう。中比良にとって 非常に縁の深い「水」というモチーフが使われることも注目したい。ユラユラと光を屈折させながら虚像であるはずのイメージを生み出し、やがてその中に実像 の本質を見せようとする水。作家の、そして私達の「今」が必ずや映し出されることだろう。