ニュートロンアーティスト登録作家 林 勇気 HAYASHI YUUKI
ファミコンのような画面で、「なじみやすさ」「見飽きない親しみやすさ」を利用して作成される映像。林勇気の作品は「ファミコン世代」と呼ばれる人達からはもちろんのこと、その他幅広い年齢層の観客をも魅了し続ける。今回の新作映像では、ゆったりとした時間が流れる「景色」が描かれる。写真を切り刻むことによって、時間を止め、空間を切り取る。それらを一つに組み合わせることにより、止まった時間に息を吹き込む。作り上げられた世界で動き出した時間は、ゆったりと、そしてとても静かな時間なのだ。
gallery neutron 桑原暢子
短い期間に個展を二回、グループ展にもひっぱりだこ。マイペースながらも精力的に活動の場を広げる林勇気の今年は、本当に多忙な日々であろう。大忙しではあるが制作も順調で、これまでとは違った感覚を呼び起こさせる新作を用意している。
彼の制作行程において、「切り取る」「繋ぎ合わせる」という行為は非常に重要である。写真を切り抜くという行為により空間を取り出し、コマ撮りする事によって時間を切り取る。それら写真の断片を短い映像の中で組み合わせ、色々な時間、様々な場所を一つの世界に仕立て上げる。過去の作品と比べると、最近の作品においてその世界の色が薄くなってきている。今回の新作でもやはり色彩は淡く、彼が言う通り「漂白された景色」が広がる。切り貼りされ、作り上げられた白い世界。そこにはとても穏やかで静かな景色が広がっている。時間はちゃんと流れているのだろうか。どうやら止まった時間が静かにゆったりと流れているようだ。切り取られた時間はそこで止まり、そのかけらは映像へと紡ぎ直され息を吹き込まれる。そして再びゆっくりと、とても穏やかに動き始める。それを静止画にすることでもう一度時間を止める。時間軸が狂ってくる。しかし彼の映像の中では、その世界の時間軸で永遠に動き続ける。それはこの世界でもなく、空想の世界でもなく、ちょうど中間の浮遊した世界なのである。
中間の世界に降り積もる白いブロック。マリンスノー(Marine snow)=海の中に降る雪。それはとても静かに、そしてゆっくりと光も届かぬ海の底へと落ちていく。その様子はまさに「海に降る雪」だ。マリンスノーの正体はプランクトンの排泄物、死骸などである。プランクトンが多く生息する海では、とてもたくさんのマリンスノーを見る事が出来るそうだが、透明度の高い海ではあまり見る事が出来ない。川や都市から流れてくる有機物が原因でプランクトンが生まれ、そうした海でもマリンスノーが見られる。雪が降るきれいな情景とは裏腹に、その実態はプランクトンの死骸であったり、人間による汚染が原因で発生したプランクトンが要因だったりする。醜いもの、おぞましいもの、汚いものがその真実だったとしても、目の前に広がる風景はそれでもなお美しい。彼が切り取った写真のかけらは、ものすごく普通のことだったり、とても見ていられないような事実かも知れない。実態を知れば「そんなことか」と一蹴してしまうかも知れない。しかしその事実を知る必要があるのだろうか。なぜなら目の前の映像はとても美しく、情緒すら感じるとても心に響くものなのだから。そして彼が作り上げた世界の時間軸に身を委ね、流れるがままに連続する映像を気が済むまで見続ければ良い。
画面の上から降る小さな結晶が紡ぎだす世界に、ただ静かに歩く人物が見受けられる。彼らは漂白された世界でコントロールするべき感情も持たず、ただひたすらに存在し続ける。特定の人物ではなく、また固有名詞すら持たない人物。“the”ではなく“a”の存在である彼ら。過去の作品の様に、コミカルな動きをする人物が登場しない。その為ループする映像は以前の作品のようにおかしみを含むものではなく、寂しさを伴う恐怖を感じさせる。名前を持たない人物の登場が、その寂しさに拍車をかける。そして私たちは作られた世界で起こる小さな事件や出来事を期待し、映像が繰り返されていることに気付きながらも、長い間その世界に魅入ってしまう。短い映像だから、どこから見始めても一通り見る事は出来る。途中から見ていたとしても、その中に「始まり」と「終わり」を見つける。本当にそこが「始まり」で「終わり」なのか?「終わり」だと思う地点を「始まり」として見てみる。世界は美しい風景にも、悲しい景色にもなり得てしまった。