neutron Gallery - 益村 千鶴展 「Esperanza」 -
2008/12/9 Mon - 28 Sun gallery neutron


静謐でノスタルジーとファンタジーが漂う画面には、私達の皮膚感 覚における痛みや温かさが存在し、優しくも切なく鑑賞者に自省と考察を促す。大阪を中心に近年はその実力に見合う評価を受けつつあり、ニュー トロンでは待望の初個展。油画でありながら日本画のような滑らかで肌理細かな質感、そして 抜群の描画力。混沌の世の中に真の「希望(Esperanza)」の光りを見せる ことが出来るか、要注目!!




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ニュートロン代表 石橋圭吾

 静謐な画面には陰影によるゆったりとした深さが満ち、柔らかくも力強く描かれるモチーフは皆一様に静止を保つが、それはぎりぎりの緊張と安穏の交差する地点でのバランスの上で成り立つ様に、美しくも悲しげなシルエットを見せている。人間の顔や手が頻繁に登場し、油画の質感というよりはまるで本物の皮膚の様な手触り(もちろん、触るわけにはいかないのだが)を感じさせる。繊細な肌理(きめ)の細やかさは、どちらかと言えば日本画のそれに近い。100号サイズの作品でもその細部に至るまでの仕上げの良さは全く崩れることなく、むしろ小作よりも大きい画面こそ、この作家の力量をいかんなく発揮するには相応しいのだと感じずにはいられない。益村千鶴は現代の若手絵画作家の中で明らかに時代の要求に抗いつつ、一方では本質的に求められるべき作家であると言い切れる。

 益村の制作は決して早いとは言えず発表歴もそれほどは多くないのだが、それでも2005年あたりから大阪を中心とする展示機会に恵まれだし、そのいずれも彼女の世界観を表現する上で意味のあるものが続いた。私が初めて見たのはまさに2005年秋の大阪・ベルギーフランドルセンター内のギャラリーというよりはコンサートスペースのような広間での展示であった。新作はもちろん大小・新旧作品がシリーズ分けされてぐるりと会場いっぱいに配置された様は、とても若手作家などと呼ぶには抵抗を感じるほどの充実度、完成度であったことを今でも鮮明に覚えている。そしてその後いくつかのギャラリーでは小作品、時に写真を用いたものなどを発表しており、(大画面こそと先述したが)小さなスケールの中にも穏やかで静かな時間を生じさせることも作家の得意な仕事だと再認識させ、その緻密さと洗練さは疑いの余地の無いものと確信した。このニュートロンでの展示は私にとっても念願であり、益村にとってもより多くの観客と出会う一遇の機会となることを願ってやまない。

  折しも時期はクリスマスシーズンを控えた師走のころ。本来なら彼女の作品は出来るだけ時間の余裕のある時に、腰掛けてでもゆっくりと眺めてほしいものなのだが、あえてこの時期に開催するのはその逆説的な理由による。即ち「早い」「軽い」「薄い」といったコンパクトで手頃な価値観ばかりが横行するこの時代にあって、さらに物や人が追い立てられる様に行き交う季節において、益村作品が有する時間と願いはむしろ私たち現代人をふと立ち止まらせ、束の間の静かな平穏と微かな不安を感じさせ、自省の念を促すかのような言い知れぬ心のささやきを届けてくれるであろうことを、期待してこその事である。

  作品の登場する顔の多くは目を閉じており、口は噤んでいる。目の前の狂騒にも惑わされず、言葉という先天的な魔法を秘めた武器にも頼らず、それでもその無言の意思表示は切実に私たちの眼前に迫り来る。寓話的ともとれる茫洋とした背景において、私たちがわずかに手がかりとできるのはその顔であり手であり、閉ざされた扉であり、枝であり、一葉でしかない。しかしそれらは決して私たちを拒絶することなく、じっと己の役割であるかのように、そこに佇み続ける。実は益村作品の顔や手における特徴は作家自身のそれに通じており、豊かでしっかりとした鼻梁、女性にしては逞しさを感じさせるほど筋肉質の手は、中性的な側面を作品に与えているという点で効果は低くない。さらに言えば、単なるファンタジーとして片付けられるにはあまりにもリアルな描写は、まさに作家が自身を深く見つめ、画面に投影してこその現実感の現れでもある。2004年の「Prayer」では細い枝に体躯を貫かれて祈る半身において痛みと安らぎを共存させ、2005年の「Internal」では自らの顔のような木彫りの彫刻あるいは肌質の顔そのものを、自らの手でしっかりと確かめる様により、自己と向き合いながらも客観的な・普遍的な思惑を呼び起こした。そして今、「Esperanza」(スペイン語で、希望の意味)と題された新たな作品がヴェールを脱ぐ。その祈りが世界に少しでも届く事を信じて。