ニュートロンアーティスト登録作家 武内 咲子 (平面)
視覚を遮るかのような色面。赤や緑の色味が網膜を刺激し、幻 惑の奥で見えて来る景色。
過去と現在を繋ぐ様々なモチーフは線描で表され、イメージの 奥行きを広げる。
色の幕は鑑賞者と光景との間に存在し、フィルターのような幕 となり、現実と想像の世界の行き来を誘うかのごとく、入口と出口を同時に果たす。
neutron代表 石橋圭吾
作品に対峙する以前に視覚に飛び込んでくるもの。それは作品の表層の景色ではなく、人間の必ずや認識するであろう、強い光の波長としての色。中でも赤系の色調は絶対的な強度を持って主張するため、多くの鑑賞者はまず会場に入る前から(遠目に様子を窺う段階から)その強い信号に一瞬の躊躇を覚えることだろう。
武内咲子の問題とするのは、ずばり色であると言う。だがしかし、実際に絵画の中に「描かれている」のはドローイングによる朧なイメージの集合であり、それは何かの光景のようにも見える。それらモチーフと呼ばれるべき事象は、普通であれば作品の印象を決定づけるであろう重要な役割を担う。しかし彼女のシリーズ作品においては、本来果たすべき役割を遠慮がちに主張するかのように、前述の色面によって覆い隠され、前に出て来ない。簡単に言えば絵としてみるべきものを、赤や黄色、緑といった色が邪魔しているのである。まさか作家は自らの絵の成り立ちを望まない、あるいはヤケになって色を塗ったのか…?
もちろんそうではない。事象(モチーフ)は鑑賞者の前にダイレクトに存在せずとも、確実に視野の奥にはうっすらと広がっているのを感じさせている。それはそれで充分な見え方であると仮定すれば、この色の存在もまた意味を持って来る。つまりは、イメージと鑑賞者の間に色の面が挟まることにより、「こちら」と「あちら」の境界が成立することになる。まさにそれこそが、武内の絵画における役割であり、赤や黄、緑といった鮮やかな色調が用いられる由縁でもある。すなわち強い波長を伴う色は、鑑賞者が奥の光景を見る際には必ず視覚を妨げるような効果があり、結果として平面の中に奥行きを生じさせ、また鑑賞者にとっては最初邪魔だと思われた色面が、目が慣れて来るうちに自然と馴染み、最終的には奥の光景に対し視覚がスムーズに伴っていけることもまた、面白い効果であると言えよう。
ただし色は色としての課題もある。武内は用いる色に感情を載せてはいないのだが、見方によっては赤系の色調は情熱、怒り、激しさを表すととらえられ、本来の絵の解釈(作家の求める)を妨げるどころか誤解させる可能性もある。そのリスクを回避するためには、作家が色を色として客観的に用い、あくまでその奥に広がる光景こそを見せようと意識しなければ、色は武内咲子の作品において本当に邪魔なものでしか無くなってしまうだろう。そのような心配を他所に、ここ数年取り組み続けるこの制作シリーズにおいて、着々と成長を遂げてきたのは頼もしいことである。蛍光色を用いた色面は、それが背景ではなく鑑賞者と絵の間に位置するものだと言う事をはっきりと示し、一方では描かれるモチーフは洗練され、光景は奥行きを増し、つまりは絵画としての完成度が向上してきているように見えるのだ。
思えば武内咲子はそもそも、カブトムシやダチョウなど動物を描く作家としての印象が強く、事実2005年頃までは単一のモチーフをカラフルな色彩で描く作品が主体であった。そこから突如としてモチーフが動きを伴うようになり、次第に色は溶け出し、モチーフは確固たる像を結ばなくなる。気がつけば今のような制作スタイルを取る様になっていったのだが、そこにはある種の必然と、作家を中心軸として周囲を巡る、矛盾なき螺旋状の表現バリエーションが存在すると思えば良いだろう。それはつまり、武内咲子という作家が物事を見て、描く方法は一つではなく、モチーフが具体性を帯びる時もあれば、まるで抽象的に認識される時もあり、一方では色はモチーフの中に位置することもあれば、物を見る際にその手前に出て来る(それはひょっとして色が本来の意味を超えて、網膜に張り付いたかのように)こともある。ユニークなスパイラルではあるが、そういった方向性をぐるっと巡りながら作品は強度を増し、物事を表すというシンプルな行為に新しい発見と驚きを与えてくれるであろう。だからこそ私達は、絵を見るという行為の中に様々な偏見や予断を捨て、身を任せ、ある一定の時間を費やし、本当に見るべきものを見出すことを忘れてはいけない。