ニュートロンアーティスト登録作家 山下 ジュンコ (絵画)
視線の先にあるもの、湧いてくるもの、舞い落ちてくるもの、自らを奮い立たせるものを受けとめる。
花をじっと観察することによって見出される、豊穣な色彩の喚起と一瞬の歓喜の表情は、キャンバスに大輪の花として描かれることによって私達の眼前に大らかに結実する。
ゆったりとした時間によって磨かれる内なる色、それはまさに遅咲きの作家自身のように。
「 T - 2 」
2010年 / 162×130cm(F100号) / キャンバス、アクリル、メディウム
gallery neutron 代表 石橋圭吾
草花を愛でる行為は美術にも古くから表され、いわゆる日本画における「佇まい」の美の発見、韻律を呼び起こす琳派の版画的・デザイン的表現方法から、一方では西洋画の油絵による重層的なマチエールと光の抑揚による物質の視覚的考察まで、様の東西を問わず普遍的なモチーフとされ続けている。だからここで山下ジュンコを紹介する時に、花を描く作家とするだけではいささか目新しさに欠け、現代における作家の表現の意義は見出しにくい。しかし一方で、近年の絵画の潮流の中に絵具の発色を用いて極めて抽象的に花及びそれを含む光景をあらわす表現、即ち基を辿ればモネの睡蓮を代表とする印象派の流れを受け継ぎ、よりストイックに、洗練を極めて結実した新しい感覚の表現が存在することも事実である。題材が同じでも、人間は時代と共に、道具や材料の変遷と共に、常にちょっとづつ新しい切り口で表現を試し、繰り返しの中にこそ先鋭的な発見が潜んでいることを思わずにはいられない。
山下ジュンコが花という永遠のモチーフの中に見出そうとするのは、その色彩や光と影による陰影によって想起される個性であり、ここで言う個性とは花の種別による生物学的・博物学的なものではなく、それらに対峙する人間のアイデンティティーであると考えられないか。なぜ人間のそれが目の前の花に潜むのかと言えば、逆説的な言い方になるが、私達が或る思い入れをもって草花や動物を眺める時、それらが何を思い・何を達成しようと考えているかよりも、私達自身が何を願い・求めているかによってそれらの対象物に対する行動や見方そのものが変化するからであり、有機的生命体であるそれら動植物に自己の投影を勝手に押し付けながら、都合の良い反応(反射現象)を無意識に求めているからこそ、私達はペットを飼い、一輪の花を愛でることが出来ると思うからである。ややネガティブな言い方ではあるが、人間はリアクションを期待する生き物であり、それがある為に能動的に活動を起こし、一度反応が得られれば次にさらに良い反応を得ようと努力する。それは自己実現という潜在的欲求と大いに関係して、時に仕事、学問、スポーツ、美術、音楽など様々なスキルの上達を促進し、それが人間の生きる喜びへと結びつく。目の前の花を勝手な祈りや期待をもって眺め・愛玩する行為は決して自己陶酔に終わらず、クリエイティブの発端とも言える行為だと位置づけることも出来るだろう。
飛躍し過ぎかも知れないが、私が山下ジュンコの絵から感じるのは極めて能動的な受動行為の結果としてのエネルギーの結実であり、本来相反するはずの能動と受動がどちらも強いレベルで達成され、これらの過剰なまでに濃厚でポジティブな視覚表現を生んでいると思わずにはいられない。一見すると従来の油絵の技法で描かれたかの様な厚塗りの印象を与える画面は、実はアクリルとメディウムにより発色と奥行きを丁寧にコントロールして作られたものだと知り、山下ジュンコの画面に対峙する姿勢はおおらかな陽性だけでなく、緻密で繊細な、深く深く沈み込む様な自己陶酔の陰性を含んでいると言う事も推測できる。彼女はまるでミツバチが己の生きる糧として花の蜜を求めて花弁の中心に飛び込み、むさぼるように花粉にまみれ、やがて生命による・生命のためのエネルギー源に辿り着いて目的を達するように、描く対象とする花に真っ向から飛び込み、その色彩や造形といった外観によるものだけでなく、もっと奥底に潜む生命の力強いエネルギーを欲するかのように溺れ、やがてそこから得たあらゆる視覚的印象を混然としたままにキャンバスに向かい、これらの絵を生み出している。その姿は凡庸な(受動的なだけの)風景画や花の絵とは切り離され、対極に位置するものである。
貪欲なまでに自己実現を求めるには、自らの資質や持てる力、他者と比較して劣っている点やコンプレックスを自覚しなければ真の目的地には達することは出来ない。山下ジュンコという画家は既に自己の立ち位置を定めて迷い無く筆をふるう術を得つつあり、何よりもエネルギーを吸収すること、それを還元して発することに執着している。虚弱と虚飾の時代に表れるこの力強い姿勢は、無骨なまでにストレートな魂を突きつけて来る。それを笑うか受け止めるか、私達の覚悟も密かに試される。