一人の少女の 一日の物語 ネオキ ハミガキ タメイキ
記憶の断片 日々がつらなる キャラクターアニメーション
と 空間インスタレーション
gallery neutron 代表 石橋圭吾
陳と劉は、共に学年は違えど、京都精華大学に留学生として通う、アジア出身の若き作家である。二人は日頃から交流を温め、この時期に企画展として発表を行いたいとの申出をもとに、この企画が実現するに至る。
陳は、既に日本はもちろん、海外でも発表を経験し、自己のルーツやアイデンティティーを基にコンセプチュアルな発表を得意とする。アジア圏の現代美術作家は自国の歴史的背景や政治・宗教的メッセージを美術に取り込んでメッセージ性の強い表現を行う傾向が非常に強く見られるが、彼も例外では無い。しかし、彼が日本に学ぼうと思った時点から、活動の幅を広げる目的はもちろん、おそらく確固たる信念と対極に有る?日本特有の「軽さ」あるいは情報量、技術を自らに得ようと思ったのでは無いかとも勝手に推測する。一方、劉の方は元来、日本のアニメーションやマンガ文化に興味を持っていた。事実、彼女の描くイラストレーションは全くをもって日本の若い女性達が描くそれと同じ匂いや空気を持ち、何の違和感も無くすーっと入ってくる。ただ、彼女は単なる絵描きでは無く、インターネットやデジタルコンテンツといった新世代のフォーマットを発表の場面として、制作に精力的に取り組んでいる。つまり、ここでもアジア諸国(特に先進国と言われる国)がいち早く展開してきた情報通信技術への取り組みの恩恵が、既に若い作家としての芽にしっかりと顕われているのである。余談だが、意外にも日本、特にここ京都でデジタル分野の作家が未だ少ないのは、その土地柄なのか、はたまた国民性なのか・・・と思い測るのである。いや日本においてはまだまだデジタル技術と作品制作(アートとしての表現)が結びついている例が少ないと言うべきか。作る側がそのような状況であれば、なおのこと、日本のアート鑑賞者達は「デジタル」という言葉に不信感を隠さない。脈々と培ってきた手工芸の歴史こそが日本の誇りであり作家の手触りこそが観賞に値すると感じる傾向が大多数なのだ。確かに、安易にテクノロジーを用いて予算を削り、時間をかけずに作品として発表された物と、丹精こめて作られた工芸品とでは、その在り方が違う。しかも、デジタルが信号として流動的な物であり、端末があれば何処でもいつでも再現可能であり、複製も出来るという点で、根本的に違うものである。そして、今まで、どんなにリアルなCGだろうと、迫力のグラフィックだろうと、我々は常にアナログこそが本物で、デジタルは限り無くそれに近付くことはできても、イコールにはならないとも感じて来た。
しかし、今回の二人の展示を見て、これらの考察とは別の印象を受けることを期待している。画面の中で動く少女に、我々は親近感を抱く。インスタレーションとしての設営物に我々は普段消費している物としての概念とは別に、馴染み深い生活の匂いや気配を感じる。二人のそれぞれの得意のスタイルが融合し、はっと気付くのだ。何かが心の中で動くのを。誤解を恐れずに言えば、それこそが本来使われるべき、「感動」という言葉である。二人はその感覚に「あっ あふれた」という繊細な言葉を選んだ。何かが心のコップに溜まり、こぼれ落ちる瞬間。そのような体験を、私は期待する。