自分と言う曖昧で不明瞭な存在、そしてほのかに憧れる絶対的な価値観をもつ世界。 あやふやな現実の世界で模索しながら、作品制作を通じて疑問を問いかけ、答えを探 す。その時の心の中の情景が入る容器は、やがて抜け殻となってしまうのでしょうか。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
立体造形、あるいは彫刻という行為によって生まれる作品は、きっと作家の明確で切実なる意図をもって作り出されるのだろう、と私達は傍から想像しがちなものであるが、はたしてそのような確固たる信念や理論に至らずとも、疑問形としての心象から生まれる造形物も有るのだと、藤原友美の作品を見ながら感じた。
2004年の春に京都市立芸術大学の制作展の会場である美術館の広いスペースに大小様々な立体造形物がひしめき合う中、透明なビンを真空パックにして一列に並べていたそれは、一際私の目を引いた。最初、それはいかにも現代美術的なコンセプチュアルでシニカルな行為の産物だと勝手に思ってはいたものの、何かそこに漂う空虚だけど切ない空気が気になり、後日その作者と会って話をする機会が持てた時にその理由が次第に判明することになる。そこには私の想像とは全く異なる、ナイーブで詩情豊かな感性が隠れていたのだ。
人は皆、自分という存在の不確かさを題材とし、自己を探究し、己を知ってこそ他者を理解する術を知るのだとすれば、私達が皆そうであるように、藤原もまた自分という存在の不明瞭で曖昧な事を知りつつ有り、かつ皆がそうであるのだと薄々知りつつも、もっと絶対的な(一元的な)価値が存在するという「あちら側の」世界に憧れてみたりもする。「あちら側」とは「イエス」か「ノー」、どちらしか存在しない世界である。それはひょっとしたら神の領域かも知れないし、あるいは精神的に病んでいると言われてしまう世界なのかも知れない。いずれにしろ、物事や自分の感情、存在、行為が「はっきりしない」のが人間であり、安易に絶対的価値観を持とうとしてもそれは「逃げ」の行為にも繋がり、未熟な宗教や理念に陥りがちである。美術作家とは物を作り・考える者だと言う。あるいは物を考え・作る者だとも言えるだろう。信念を持った上での創作もあれば、疑問という曖昧で不確定な問題をあえて物を作ることによって解消する(あるいはさらに問題提起を深める)タイプも然りであろう。もちろん、藤原は後者だと言える。先日の真空パックされたビンに至る動機はもはや過去のものであったとしても、そこには必然的な疑問とそれを解消あるいは考察しようとする意識があり、結果としてその作品は生まれた。色彩や中味の無い「透明」な容器(「ビン」)はすなわち制作時の藤原自身と密接な関係を持っていたし、さらには真空パックとは外気を遮断する行為であった。
まだ現役の学生であり今後の進路も未定であるが、あえて彼女をここに紹介する理由は明解である。藤原友美の現在は現在にしか行われず、それを鑑賞するのもまた現在の出来事だからだ。作品や記録として保存することは出来ても、実は過ぎ去ってしまえばそれは心の抜け殻にも似た、ぽっかりとした容器であり、あるいは「物」としての存在でしか無くなる、というのは言い過ぎであろうか。しかし制作者としてはきっとそうなのでは無いかと思う。もちろん、これは美術作品という意図をもって生み出される物である故、一概にその後世の存在価値を否定する訳では無い。しかしどこか刹那的な、それでいて文学的な印象を受けるのはそれが彼女自身の精神、心の中の問題から生まれるものであり、それらはやがて気付かぬ内に消えていくかもしれないし、ずっとしこりとして残るのかも知れない。とにかくそれは、やはり誰にも分らない事なのである。そうして残された作品は、グルグルと巡る思考回路の迷路に現れるオブジェであり、彼女自身の映し鏡であるとも言える。
まさに今回、発表するのは「抜け殻」だと言う。制作時で抜け殻なのだとすれば、後々はそれは何になると言うのだろう。いや、今現在それを制作しているからと言って、果たして彼女の心の中が空虚なものだと言えるはずもない。結局の所、人間は近付いても近付けず、肌に触れていたとしても心の閉ざされた部分には手は届かない。だからこそ作品が生まれるのかもしれない。