情報を伝える手段として、また絵柄としての印象を与える役割を果たす「文字」。 絵画から出発し、カリグラフィーにも通じる文字への探究心は、平面という枠の中 で確実に可能性を広げ、ロマンチックな旅路へと私達を誘う。赤い朧月夜の幻影のような、形象風景。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
「Cara」とはスペイン語で「裏表」のことだと言う。何をもって裏、表と捉えるかは自由であろうが、重岡の制作に一貫する「文字」をモチーフとした様々な仕事を見ていると、言語とはそもそも記号としての役割と絵柄としての印象、少なくともこの2面性がある事は容易に感じられる。さらには読む、書く、聞く等の行為によって文字(言葉)は実に流動的に展開され、頭の中に一つの文字をイメージ(形成)するよりも早く、情報は脳内に伝達されてやがて消えていく。文字という質感を伴う情報あるいは出来事は、それをもってして果たして、物事の本質と言えるのか、あるいは残された印としての像、と言うべきものなのか・・・。特に時代のスピード感が光速的に増すとともに、もはや我々が日頃一番に目にする文字はデジタル信号によって形成されるパソコンや携帯電話の端末に映る画一的なフォントでしかなくどんなに絵文字や顔文字を駆使しようとも、やはり手描きの達筆な線や拙くとも微笑ましい字などは再現しようが無いし、そういった意味でインターネットを通じたフラットで匿名的なコミュニケーションにおいては「文字」のダイナミズムは本質的には失われていると言えるのかもしれない。すなわちそれは、「絵柄としての印象」という部分において。
さて、重岡の制作はカリグラフィーの対極から出発しつつも、実は向っている先はそれと同じ目標地点なのでは無いかと感じる。書や篆刻はそもそも情報伝達と絵柄としての印象を兼ね備えた文字を出発し、ある時はその象形のルーツを辿り、ある時は文字の連なりを意識してリズムやアクセントを生み出す。また、特に版を用いる場合では確実にその制限される大きさを伴った上でのデザイン性や空間構成に比重が置かれるであろうから、実はキャンバスやパネルを支持体とする平面の領域に近いと言えなくもない。そう、まさに重岡はその平面あるいは絵画の領域より出発し、早くから文字の情報伝達以外の部分、いわゆる絵柄としての印象や韻律によるダイナミズムに着眼し、既に多くの作品を作り出してきたのである。その仕事は、ある時は純粋にカリグラフィーそのものであったり、象形としての絵画であったり、様々な素材を試用してみたりするミクストメディア的なものであったり、またある時は空間構成に影響を及ぼし全体のテーマを決める軸としての文字使いを見せる。実に多彩な制作なのだが、不思議と散漫な印象は無い。なぜなら文字と重岡は説明の及ばないくらい密接に関係しているものであり、制作のテーマとしての存在では無いから、当然のように平面の領域のあちらこちらに文字が登場し、それぞれが果たすべき役割を変え、なお重岡のユニークな制作スタイルを支えているのであろう。
新作は2003年の「noche de luna brumosa」(邦訳:おぼろ月夜)でも見せた赤く、情熱的な月をシンボルに展開される連作の予定である。重岡は旅行で訪れたスペインをいたく気に入り、今なおその情感を心の中にくすぶらせつつ、客観的な視線と照らし合わせることによって自らの体内の冷たくて熱い温度を蘇らせようとする。この作品の流れの基となった「luna」では文字は全く見られず、韻律を思わすリズムがキーになっていたが、そこから少しづつ文字の要素が立ち現れ、今回の新作では全体として文字とリズムによって構成される作品群となるのだと言う。さらに今回は基調となる色(白、黒、赤、紺)の組み合わせも大きな意味を持ちそうだ。文字だけで無く、ティッシュペーパーや綿、あるいは和紙などを使って質感を生み出す手法も見所になるであろう。
最後に重岡のもう一つの側面にも触れておきたい。文字のシリーズとは別に、心理学にも興味をもつ彼女はそれに関しても連作を発表している。そちらは幻想的な登場人物達が織り成すファンタジックな世界、と感じられるが、では、本当にこれは「別の」シリーズと言えるだろうか?重岡が文字にこだわる理由の内に、何かしらの心理学的要素が無いと、どうして言えようか。言葉は気持ちを伝える手段でもある。伝えたくても上手く伝えられない気持ち、素直に出せない言葉など。表も裏も有るのが人間であるならば、月は時には道しるべになり、時に人の心をかき乱す。そんなロマンチックな心象風景も見逃せない。