neutron Gallery - ニュートロンに初詣 『 〜Japanize Japan〜 』 - 
2005/1/4Tue - 16Sun 京都新京極 neutron 5F & B1 gallery

2005年の年明けは、2週間に渡って両階で開催するめでたい企画!三人の日本 画出身者が、それぞれのスタイルと精神を発揮してニュートロンを神聖で楽しい空間 に仕立てる。神社仏閣の本来のエンターテイメント性、美術の面白さ、そして初詣の イベント性を融合し、楽しませます。扇子や絵馬、小作品にお守り的なアクセサリー までグッズも盛り沢山!絶対にお見逃しなく!!

 


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gallery neutron 代表 石橋圭吾

  あまり年末やお正月の時期に展覧会を開催する画廊は少ないと思うのだが、ニュートロンは例外である。正確に言えば年末年始の5日間の休業はあるのだが、それは一般的なお店のそれと同じく、あくまで最短の休業に留め、三ヶ日が終われば普段通り営業する。ギャラリーあるいは画廊だからその時期は休む、というのは羨ましいことでも有るのだが、本来私達が一番目を向けているターゲットが決して美術界の常識に留まらない人々であり、ごくごく一般の(美術に馴染みの薄い)人達だからこそ、クリスマスや正月、というのはそれなりに企画のやりがいもあるのである。
  今回集まった3人は、いずれも私と歳をほぼ同じくし、関西の美術界において少なからず注目を集め、今まさに旬であると言える作家達である。そして共通点と言えば、3人とも一般にいうところの「日本画」を出身としている点である。そしてもう一つ、その「日本画」という枠を超えて / 広げて / 壊して行こうとするスタンスでもあるということ。正月だから日本画の・・・などと当たり前の発想ではない。私が常々思うのは日本画出身の作家はおおよそ他の絵画分野よりも技術的なものを先攻して習得する傾向が強く、その時点では日本古来の絵具や画材を主に扱い、「日本画」という範疇に捕われているとも言えるのだが、その技術的な習練の結果、自身の本来の表現を求めて行く過程において従来の枠は一気に窮屈に感じられるようになる。そこで彼らのような時代の分子が誕生する。各々の制作のテーマは全く別方向を向いていようとも、表現における技術的な説得力や制作力はずば抜けている。何より、「温故知新」の精神から生まれるからこそ?ハングリー精神も旺盛である。彼に限らず、今後このような経緯を辿った作家達が次々と意欲的な発表をし、日本および世界の美術を震撼させる日は、もはや遠く無い。
  この企画について言えば、添付されている船井美佐のステートメントが当を得ている。「初詣」としたのは何故か?それは古来から信仰、娯楽、美術、および精神文化と生活とが密着していた社寺仏閣において人々が感じ、楽しんだであろう「アート」の喜びを、今この時代に本質的に受け継ぐべき存在があるとすれば、その中の一つに「ギャラリー」というものが含まれるはずだ。しかし現在ではそういった土着的精神論はモダンな思考から切り離されてしまう例が多く、単に「古いスタイル / 形式」として片付けられてしまう機会も多い。そして私がニュートロンを主宰しながら常々感じるように、彼ら3人が感じているのは、現代における「ギャラリー」あるいはそれに附随するものの働きは極めて限定的であり、人々の生活に深く根付いているとは言えない。先述の信仰、娯楽、美術、および精神文化と生活との接点は失われているかの様だ。だからこそ、『ニュートロンに初詣』なのである。ここでは常日頃、生活に密接に存在しうる表現が模索され、誰しもに対してオープンに提示され、その楽しみを分け隔てなく感じて欲しいとの意図がある。それは信仰とまではいかなくても、「詣でる / 参る」対象としては充分な意義が有るはずである(自画自賛か?)。苦難の2004年を乗り越え、京都の、日本の、人類の将来を占うべく、彼らはコンセプトに乗っ取りそれぞれの役割を担う。山本は神社における「ハレ」の部を代表し、装飾性、美術的観点をパロディーも混ぜつつ現代にリミックスして見せる。三瀬は従来の平面を超えインスタレーションとしての形式で、華やかな喧噪の裏にひっそりと垣間見える人間の色気や本質的な祈りの姿を示す。そして船井は、会場のうち最も最深部に位置する5階のギャラリーにて、信仰、崇拝の基となる人間の精神の構造とも捉えられ得る形なき形のモノを、次元を超えたスタイルで象徴的な空間を造り出すことによって示す。3者3様の展示が示すであろうものは、社寺に存在する人間の拠り所としての機能であり情報であり、欲望の象徴でもある。さらにこの企画のために、それぞれの作家とニュートロンによる様々な販売物が揃えられる。これはもちろん、初詣に行った際に手に取るであろうおみくじやお守り、破魔矢、絵馬、その他多彩なグッズが姿を変えたものであり、作品そのものでもある。
  作家という者が「一人宗教」の教祖だとすれば、彼らの制作はそれぞれの信仰あるいは信念に基づく。だからここに見られるのは名前で区別される宗教ではなく、自らの信念の基に生まれて来た純粋な表現の産物によって、多くの人に楽しんでもらいたい、何かを感じて・考えてもらいたいという共通の願いである。天災、戦争、離合集散の絶えない世界に、この企画がどれだけの人を楽しませ・魅了することが出来るか。それはニュートロン、そしてそれぞれの作家の行く末も占うものになるだろう。