neutron Gallery - 入江マキ 展 『 夜の番人 』 - 
2005/3/1Tue - 6Sun 京都新京極 neutron B1 gallery

「不条理」という言葉だけでは片付けられない、人間の奥底に眠る記憶や夢の様な 空想世界に案内してくれる入江マキ。今回は長年のテーマだった「絵本」に挑戦。作 者のイメージする世界の全体像が朧げに浮かび上がる。





comment
gallery neutron 代表 石橋圭吾

  俗に「不条理」とか「不合理」とか言うが、この世の中の現実程そうであるものは無い。事実は小説より奇なり、を地で行く出来事ばかりが誌面を覆わんばかりに氾濫し、私達の感覚はもはやその現実の世界のあまりに強い刺激に晒されることにより、ファンタジーや空想の世界では極めて牧歌的で、勧善懲悪的な内容が好まれている様に思われる。平和な時代であれば刺激的なアクションや残虐なシーンが時として物議を醸し出しもするが、今やそれらは現実世界で行われるため、映画やドラマに求められるのは古臭いまでの純粋さと、切ないまでの現実逃避である。昨今の「純愛」ブーム(恋愛に「ブーム」もおかしな話だが)等、その典型と言えるのではないだろうか。
  吉田戦車が80~90年代に漫画において「不条理」を爆発的にヒットさせるずっと以前から文学や演劇、あるいは映像の分野においてもそのような表現はずっと試行錯誤されてきた。しかしそれらは主に「アングラ」であり、消費社会の表に堂々と立つことはほとんど無かった。今ではイラストレーションや漫画、小説やテレビに至るまであちこちにスパイスのごとく播かれる「不条理」は、単に感覚的に面白そうだという理由で為されるものが大部分を占めるだろう。そこに本来の「人間の内部に深い心理的考察を加えることにより発見される、理由のつかない心象や感情、思考」といったものは見受けられない。本来ならこのような真摯な洞察があってこそ、訳の分からない、筋道の通らない現象として描かれていたのではないだろうか。そしてそれは、作者の「生きる」という事への切実な願望や淡い期待がこめられていただろう。現実の思考が何処かで統制され、予定調和的にコントロールされていたからこそ。だからこそ今この時代に、真の「不条理」は現実の方であり、人間という弱くて脆い生き物の寄る辺となるべき理想の生き方や指針のようなものは、純愛ドラマの中くらいにしか見当たらないのだろうか。
  そうした中、入江マキの世界観は「不条理」とされて久しい。他に言い様が無い、というのが本音だろうが、それで終わらせてしまってはあまりにも無責任であろう。確かに入江の描く画面で行われている出来事は支離滅裂で突拍子もなく、書かれている記号の羅列は全く意味を為さない。しかしそれは私達の固定観念からするとそうであるだけで、実は全くもって「不条理」では無いのでは、と最近思えてきた。なぜなら、入江はドローイングと、作品としての絵画を区別する。ドローイングは無意識の発想を意識的に定着させる行為でもあり、作品としての制作はその世界観の完成を目指す行為だ。それに、現在取り組んでいる「絵本」としての制作は、まさに今までの支離滅裂の絡んだ糸を解きほぐすように、ストーリーとして並べる行為にあたる。仮にその話の筋道が理解しづらかったとしても、ここで重要なのは「作者の意図」がきちんと筋道立てて構成される点である。入江の表現はいささかファンタジーが強すぎて見えても、その制作過程はまさに王道的である。彼女がイラストレーションでも漫画でもなく「絵画」を専攻してきたのも、あまりにも明確にそれを指し示す。「不条理」等と言う便利で無意味な言葉を当てはめていた私達が悪いのだ。それに、そんな風に頭でっかちにあれこれ考えて見る前に、ここに描かれる登場人物達は何度もリハーサルを重ね、すっかり準備万端整っている。あとはとりあえず、入江マキが用意した脚本通りに演じるだけ。ほら、台本も、ポスターも、カット割のスケッチも、舞台もみんな、ここに有るでしょう。