neutron Gallery - 笹倉 洋平 展 - 『 つたふ 』
2007/11/12Mon - 25Sun gallery neutron kyoto
ニュートロンアーティスト登録作家 笹倉 洋平  (平面)

線を超えた線。動きだし、やがて形を留める線。 線を引くという行為から生まれる現象は、こんなにも多様に観客を魅了する。 気鋭の作家が2年ぶりにニュートロンでの個展を開催。 京都・大阪を中心に精力的に活動してきた成果を如何なく発揮する! ニュートロンの壁に這う蔦は、果してどのように私達を虜にするのか。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 笹倉洋平の描く線は次々と変化し、「ドローイング」としての領域を軽々と超え、今や絵画とも素描ともつかぬ二次元の新しい可能性を拓きつつあるように感じられる。
  彼がニュートロンにおいて自身初めての個展を開催したのが2005年の2月。以後、大阪・京都を中心に個展、グループ展を問わず精力的な活動を経て、美術雑誌にも顔と名を売り出すまでになった。その間、線は驚くべき密集とうねりの力から拡散の自在さ、または閉ざされた完結性から開放された自由なイメージへと変貌を遂げつつも、本質的に一本の線によって生じる画面上の出来事を追い続けている。
  線を引けば画面には3つの領域が発生する。線の内側(絵画における描画域またはモチーフ)と、外側(背景であり地である領域)、そして線そのものである。線は内と外とを隔てる隔壁としても機能するが、同時に「塗り」の無い描写技法においては「もの」の存在そのものを表すことにもなる。さらにそれが一本でなく複数が集積する場合、「動き」や「奥行き」を表現することを可能とし、一本一本の濃淡の違い、太さの違いが画面をよりち密に見せる。極めてシンプルと思われるこれらの要素が積もり積もれば、太い筆で一気に塗り上げる作業よりも何倍もの時間を要し、緊張感と計算の折り重なる重労働になる。しかしだからこそ、完成された画面に漂ういくつもの時間の層、一本一本の線に込められた力の強弱は作家の思いを端から端まで表し、鑑賞者をその一本において絡み取ると同時に離さない魅力に満ちあふれるのだろう。
  2005年の「chain-synesthesia」では重厚な線の集積による低音域のうねりを生じさせ、煮えたぎるマグマから噴出したかの様なフォルムはさほど大きくない画面から驚く程の迫力を醸し出した。やがて線は数や質を変化させ、内側に働く力(何かの形を作ろうとする働き)よりも画面いっぱいに広がりつつ一定の法則に導き出された動きによって、場所・時間・形態の違いにおける多様な姿を見せていく。あまり成功したとは言えないが、2005年7月の個展(大阪)では銅線による立体作品、それを接写した写真作品も登場し興味深かった。2006年7月の神戸での展示では、音楽家とのコラボレーションによるライブペインティングによって生まれた線は前衛書家の手によったかのような瞬間の出来事として描かれ、一本一本は瞬時に引かれすぐに立ち消えるのだが、その集積としての画面は不思議なリズム感と音程を有しているかの様であった。さらに昨年末の個展(大阪)においては久しぶりに閉ざされた線によって「花」というモチーフに挑み、必要以上でも以下でもない線によって表される象徴的で普遍的な素材が見事に開花したのであった。確かな線と儚い存在、輪郭と存在の際(きわ)における緩やかで調和した緊張感、画面に漂う色気は作家の成長を物語った。
  そして今回、描こうとするのは「蔦(つた)」である。「蔦」は本来性において太陽光線を求めて木々や建築物を緩やかに侵食する「線」であり、生命である。今までとは違って、そういったイメージを有する存在をさらに線描によって別の次元に置き換えるのは容易なことでは無いであろう。笹倉は自らの線に蔦(ツル性の植物と言い換えても良い)の持つ生命のエネルギーと、人間が求めてきた幾多の神秘を求めているのだろう。蔦は古来、西洋では[生命]、[繁茂]、[不滅の愛]を表し、日本では[別れ]、[境界の横断]の象徴とされた。まさに生と死の同居するモチーフである。ニュートロンの壁に「つたふ」線は、果たして生きているのか、死んでいるのか。