ニュートロンアーティスト登録作家 衣川 泰典 KINUKAWA YASUNORI
版画と絵画を組み合わせながら自己を巡る旅を美術として考察する衣川が、久しぶりの個展に挑む。
スクラップブックという個人の記録から端を発し、他人の記憶を追体験する旅、自分の記憶を遡る旅を始め、大きな夜空のような黒い画面の広がりは今回、真っ白の浮遊空間へと変貌を遂げる。
何に「ふれて」、何を「みる」のか。その答えは絵の中にではなく、絵を見るあなたの中にこそあるはず。
ニュートロン代表 石橋圭吾
現代の小学生くらいの女の子の夢を絵に描き表せば、可愛い洋服を取っ替え引っ替え身にまといながら素敵な彼 氏と表参道あたりをデートして、話題のカフェで極上のスイーツを頬張り、背景にはプリクラも携帯デコレーションも顔負けのキラキラがぎっしりとちりばめら れ……。と、あくまで想像でしかないのだが、一方で男子の妄想はおそらく時代に関わらず似た様なものであろう。好きな食べ物やカッコイイ乗り物、アニメの ヒーロー、スポーツ選手に戦闘機、アイドル歌手に好きな女の子……具体的なストーリーよりも、次から次へと浮かんで来る憧れのものたちと過ごす夏休みが延々と続くことが出来れば、死ぬ程幸せである。下らないと笑いたければ笑えば良い。しかし男子たるもの、好きなものには徹底的にこだわり、努力して目指せば 本当にヒーローにだってなれるのだ。
衣川泰典の絵はまさに子供の夢のおもちゃ箱をひっくり返したような騒ぎである。しかし甘いばかりではない。子供なりに恐れるものやトラウマ体験、さらにはちょっぴり切ないひと夏の経験だって、包み隠さず描かれている。カッコいいだけでは男ではない。格好悪い、恥ずかしい、情けないことが男を成長させるの だ。それを知った今だからこそ、彼の絵に素直に描かれているモチーフに共感を持つ男は少なくないだろう。女性から見ればまた、いかに男と言うものが幼くて ロマンチストであるかが解り、それはそれで面白いはずである。
2006年夏のニュートロンでの個展で見せた「ヨゾラノニジ」で、大きな黒い画面に彼の夢をちりばめて以来、しばらくは同様の大作での制作が続いてい る。黒い大画面は漆黒の夜空を連想させるのはもちろん、少年が夜空に畏怖とロマンを抱いて見上げる星空のように、あらゆる思いが浮かんでは消えるのにぴっ たりの背景である。画面一つに様々なモチーフが無秩序に配置され、どれが主役でも脇役でも無い。渾然一体とした広がりが絵そのものであり、部分であるはずの一つのモチーフは衣川が入念にドローイングで描いてきた大事な記憶の宝物でもある。写真のスクラップやドローイングを貼り重ね、ペイントして全体を構成する手法はコラージュ・ペイントと呼ぶ事が出来るが、考えてみればそれはデジタルが幅を利かせる現代において非常にアナログで旧式な手法だとも言えよう。 衣川が自分の幼少の頃からの夢や妄想にリアリティーと普遍性を持たせるためには、あえて自らの記憶と記録を辿ってモチーフを採集し、洗浄して彩色し、画面 と言う大きな箱に並べて見せることが必要であったのだ。それは何より、過去から未来へと続く自分の旅路の中で大いに道に迷い、それでも星を頼りに進むべき 方向を見定める行為、あるいは自分という未完の書物の1ページ1ページを辿りながら、記憶の断片や鮮烈な印象を拾い集め、今という時代に生きる自分を確認 する行為でもあるのかも知れない。
今回の新作では、彼は黒い画面を捨て、再び白い背景にモチーフを描こうと試みる。「再び」と書いたのには訳がある。彼がまだコラージュ・ペイントを始め る前、精華大学大学院の頃には、真っ白な背景にカラースプレーで描かれたような鮮やかな色彩の放物線や広がりをシルクスクリーンを用いて描いていた。いか にも現代美術といった体裁のシリーズで、当時はストイックで難解な印象を持つこともあったが、洗練されたその画面の反対側には、実は実直で洗練とはほど遠 いスクラップのシリーズが控えていたのだ。両者は相反すると共に巡り巡る。白い画面には逃げ場が無く、塗りつぶすことも誤魔化すことも用意ではない。配置されたモチーフ達にも今までにない緊張感が漲るだろう。当時抽象的に描かれていた色彩の塊や線は、もしかしたらここに描かれる様々なモチーフの事だったのかも知れない。少年は着実に、大人へと成長し続ける。