neutron Gallery - 入江 マキ展 『アラームはまだか、まだか』-
2008/9/30 Tue - 10/12 Sun gallery neutron
ニュートロンアーティスト登録作家 入江 マキ IRIE MAKI

2005年の「夜の番人」以来、久々のニュートロンでの個展とな る、現在東京在住の作家。
摩訶不思議な、夢の中の世界のようなおとぎ話は、それでいてかす かな体温と感情を持つ。
キラキラペンやインクによるドローイングと、アクリルによる絵画 作品によって展開される、浮遊感と清涼感に満ちた、この世界の別時間をぜひ、ご堪能下さ い・・・。




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ニュートロン代表 石橋圭吾

 2005年の「夜の番人」以来、実に3年ぶりとなるニュートロンでの個展は、もしかしたら従来の入江マキの作家像を少しばかり覆すようなものになりそうだ。

  神戸での個展はあったものの、2006年から東京に住む作家は、発表は少ないものの、日々のドローイング制作を欠かすことなく、イラストレーションとしての仕事をコンスタントにこなし、その世界観を熟成させてきた。

  従来、入江は自分の作品をそのまま(原画として)見せることよりも、印刷物としての二次的産物を「作品」として見せることにこだわってきた一面がある。その印象が最も強いのが2005年の「夜の番人」(neutron B1 gallery)であり、同名タイトルの絵本(画集)のエディション付き自費制作と合わせて、大きなポスター出力を中心とした構成であった。一般に商業展開を軸とするイラストレーターはこのような(原画ではなく版画やポスターを展示販売する)手法をとりがちだが、入江をイラストレーターと限定してしまうのは間違っている。経歴を見ても京都造形大学洋画コースから京都市立芸術大学大学院の油画専攻へと進んでいるし、イラストレーターとしての仕事は制作の二次的な側面である。ではなぜプリントアウトした「作品」をわざわざ見せるかと言えば、「印刷された状態にこそ、作品としてのリアリティーを感じた」からだと言えるのではないか。キャンバスやパネルに描かれた生ものとしての状態よりも、紙やインクを介在して再現(再構築)された産物としての状態に、自作の完全なる決着と愛着を感じた、と言うべきか。不思議なのは、パソコンが普及してデジタル技術による制作が容易になって以降、逆に「紙」や「本」といったアナログな産物に対するフェチシズムにも似た愛着を示す作り手が増えているようだが、入江は出力段階では当然のようにデジタル処理を行っているし、2007年あたりでは着色をデジタルで行ってもいる。このアンバランスなように見えて要領の良いアイデアこそ、21世紀の若き作家達においてはもはやスタンダードと言えるスタイルなのかも知れない。

  もう一つ、印刷物が好きだと言う理由以外に、彼女は生ものとしての絵画を見せることを恥ずかしがっていたという点も見逃せない。少なからず手あかや汚れ、マチエールや皺や手触りといったものたちが、作家の内面や感情を伝えてしまうのを恐れてか、そもそも感情的なものを最初から見せたいと思っていないのか、表面がつるっとしたものでありたいと考えていた節がある。絵の中に描かれる意味不明の記号のような文字列も、作家による何かしらのメッセージであるはずなのに、判読不能である。直接的に伝わる気持ちや感情は極力排除され、冷めた印象さえ与える。だがもちろん、作家は冷めていない。多作でバイタリティー溢れる一面を持ち、見ようによっては絵の中も賑やかでエネルギッシュであるとも言える。作家はいつまでも夢を見ている様な感覚を描き表そうとするが、同時にそれは現実世界において行われる表現行為であるのだから、作品は確信的で能動的な行為の結果であるのだ。つまりは、入江は寝ているのではなく、確実に起きている。冷めているのではなく、覚めて(醒めて)いながらにして、これらを描いている。だからこそ、日々描き続けるドローイングの圧倒的な量が(創作の)必然性を物語り、無意識や無意図といった言葉をきっぱりと排除する。

  そして今回、どうやら私達は彼女の生身の体温に触れることが出来そうだ。もちろん、作品を介してのことであるが。ギャラリーに出されるのはドローイングの原画はもちろん、パネルにアクリルで描かれた絵画作品そのものである。他の作家ならば当然のことでありながら、入江にとってはそうではない。作家の汗と匂いが感じ取れるのか、それともひんやりと肩すかしを喰らうのか。どちらにしても注目である。