ニュートロンアーティスト登録作家 塩崎 優 SHIOZAKI YUU
さっと目の前を通り過ぎた何か。そして目に見えたはずのそれだけでなく、存在したかも知れない何か達。存在として信じられるのは、確固たるものではなく、 常に流動的で変化し、やがて消えて行ってしまうかも知れないもの・・・。頼りない線と淡い色調で朧な印象を描き表すドローイングと、油彩で定着させる平面 作品。どちらも現代の「もののあわれ」を感じさせるような、儚く映る残像 として。京都市立芸大油画専攻卒の作家の、ニュートロンでは初の個展。
ニュートロン代表 石橋圭吾
おとぎ話の一場面をさらりと描写したかのような、頼りない筆致と朧(おぼろ)な景色。淡いパステル調の色波の中において、ブルーが一つの基調色として多用されることにより、幻想的な場面が描かれている割に、覚めた意識の一端を見ることも出来る。
塩崎優の描くドローイングは水彩により、キャンバス作品は油彩によるものが主だが、どちらにも共通して白昼夢のようにうっすらと儚げ(はかなげ)な像 (イメージ)が描かれる。「像を結ぶ」とは、私達が眼球という脳の出張器官を通じて得た信号が、脳内で整合されることにより「物が見える」と感じることで あり、視覚とは本来、電気信号の伝播によるものであるから、例えば私が「青」という色と認識している色が、他の人の目には「赤」に映っている可能性だって 捨てきれないが、そこには信号によって動かされる感情や感覚が共通項として存在しているため、実際に見ている色そのものは問題ではないと、かの養老猛先生 も書かれていた。私は先天性の色弱異常という症状を持っているため、緑と赤の判別が付きにくい事があったが(現在は改善している)、さして不自由とも思わ なかった。色に限らずものを見る、ものの存在を認識するとはそれほどに不確かな行為であると言わざるを得ない。
間違えてはいけないのは、塩崎の絵は夢の中の出来事を羅列したものではないし、コックリさんのごとく無意識のうちに手がさらさらと線を引いた訳でもな い。確固たる意思のもとに、物事が流れている様、つまり「物事が確かで無いと言う事は即ち流動的で不定形であるという事」を表現していると言えよう。具象 とも抽象とも言えない、だからといって「心象」としてしまうと現実感が無さ過ぎる。彼女には確かに一瞬でも、絵に描かれている状景が「見えて」いるはず だ。しかし同時に画面には脚色も含まれている。なぜ脚色が許されるかと言えば、さっと目の前を通り過ぎた事象だけではなく、そこには他の何かが同時に存在 していた可能性は否定できないし、その可能性を信じた方が、目の前の出来事に何かの意味を見いだすことが出来ると思うからである。目に見えないからといっ て霊魂や超自然の現象を否定してしまうより、「あっても不思議ではない」と気楽に考える方が、もしかしたら世の中に対する見方そのものが柔らかく、大らか なものになるかも知れない。日本に限らず世界各地の土着信仰の発端はそのような「見える/見えない」を超えた次元での「存在」を信じたからこそ生まれ、そ れを受け継ぐことにより豊穣に育まれた文化となったのは、間違いないだろう。
とにかく塩崎は、目の前をかすめた「何か」を捉えきれないままに、しかしその美しい残像を忘れないうちに、それが自分にとってきっと意味のある、幸せな 出来事であったと願うために、紙に線を走らせる。なるべく流線を用い、色は印象として残すため差し色を強調し、不完全な像を不完全な状態として保存する。 それが彼女のドローイングであり、いわば一瞬の去り行く状景のスケッチのようなものである。
一方、改めてキャンバスに筆を置く時は、それらドローイングに示された微かな痕跡(残像)と淡い匂い(残り香)を思い出しつつ、自分の中に結実する確か なる像としての景色を描き起こす。そこにおいては現実に起こりえない状景も作家の意図によって「確かに」存在し、私達の目に「見える」作品として、その貌 (すがた)を少しだけこちらに向ける。あくまで、少しだけ…。なぜなら、塩崎が信じるリアリティーとは固定の存在ではなく、常に流動的で不確かなものの中 にある。だから作品に描き起こされたそれらのイメージも、決して確実で固まった像ではない。
名前のつかない「もの」は、自由である。何にでもなれる可能性だけが存在し、何かでは無いという否定的な事実は存在しない。ここに描かれているのは、そんな名無しの存在達。私達の生活のどこかに、彼らはきっと居るはずなのに。