ニュートロンアーティスト登録作家 笹倉 洋平 (平面 / インスタレーション)
線描による植物的な画面展開により、平面を超えた無限の可能 性を感じさせる作家。
ミニマルな世界観から増殖する一本一本の線が示す、旺盛な生 命力とその先の死。
天の川のように頭上に広がる線の織りなす光景は、光と空気の 揺らめきで常に印象を変化させ、固定観念にとらわれることを拒むかのように、イメージは自在 に伸縮を繰り返す。
京都・東京の両会場で続けて行い、実りの秋となるであろう。
gallery neutron 代表 石橋圭吾
この秋、笹倉洋平によるツタは京都と東京それぞれの空間を自在に侵蝕する。あえてカタカナで「ツタ」と書いたが、もともとは2007年にニュートロン(京都)で発表した「つたふ」から始まっている一連の制作におけるモチーフとなった「蔦」である。それをあえて「ツタ」及びタイトルの「ツタフ」のようにカタカナで表記するのは、もはや蔓科の植物としての「蔦」を超えた線の導き方、描き方を彼が習得し、それによってもっと根源的な生命に対する畏怖や尊敬の念を表すことを目指しているからこそ、作品及び発表におけるタイトルには記号的な意味を強めるためにカタカナで表記することになったのである。もちろん彼にとって「蔦」はこのシリーズにおいて重要なモチーフであることに変わりはなく、それどころか蔦の中に線の本質を見出した事は、彼の今までの制作におけるターニングポイントとなったとも言えるだろう。
彼がビルや路地の塀に這う蔦から感じたことは、計り知れず大きい。蔦は太陽の動きに合わせて左右の動きを伴って成長し、壁面に強力な吸着面をもって自分の身を固定し、さらにはそこから人知れず養分まで吸い取っているのだから、驚きである。蔦の絡まる家や建物は趣があって素敵だと一般に言われるが、実はその建築の行く末は蔦による侵蝕の果ての崩落であり、現に野球の聖地・甲子園の名物であったスタンド外壁の蔦も取り払われたのは記憶に新しい。派手なモーションを見せる動物と違って、植物は地味で平和に映るものであるが、その実はしたたかに、そして獰猛に根を・枝を・蔓を日々伸ばしているのである。それは例えコンクリートブロックだろうとレンガだろうと、無機質な物と思われる素材からも極めて微量の水分や養分を奪い去り、やがて人間の築いた礎をひっくり返そうかという力を発揮する。彼らは太陽と水を味方につけて、どんな環境でもしぶとく、根強く生き延びようとする。そのバイタリティーたるや人間の比ではないであろう。
本質的に生きること、増殖することを目的として細胞分裂を繰り返す植物達には、驚かされることも怖れを感じることも多い。蔦に限らず、笹倉が引く線はまさにそういった植物的な、静かだが確実に進行(侵攻)する生命のエネルギーの矛先としての線である。その証拠に、彼は最近の発表においては支持体である紙を壁面にしっかりと固定せず、あえて画面にカーブを生じさせ、揺らぐものとして線の集合体を空間の中に放り出すかのように提示している。そればかりか、今年の5月に京都の旧・立誠小学校で行われたグループ展では、古い校舎の階段の踊り場から上の階まで、まるで反物が干されているかのようにゆったりと張られた作品は、トレーシングペーパーに線が描かれていたものであった。窓からの外光の変化によって刻々とその表情を変え、鑑賞する位置によっては作品の表面あるいは裏面を交互に眺めることも可能である。こういった柔軟性(それは支持体の柔らかさを含む、線の在り様のことを指す)は以前の笹倉の作品には無かったことであり、彼が言う様に「もっともシンプルな描画方法」である線描において、その一本一本、一つのカーブや線の行き先は非常に重要な意味を持ち、自然と緊張感の漲る動かしがたい画面となるのが常である。だが、笹倉が自身の線を解放しつつあるのには、彼自身の思う「線」の在り方を追い求める上では不可欠な理由が存在するのだろう。それが何かは私達が作品を目の前に感じれば良い事である。彼はもはや画材がペンであろうと鉛筆であろうと、支持体がどのような紙(時には塩化ビニールだったり)であろうと、線描によって無から有を生み出すことを可能にしつつある。それはまるで目に見えない微粒子や微生物が光合成によって知らない間に集束し、やがてある意思をもって増殖を繰り返し、ふと気がついた時には私達の目の前に夥しい線の集合体として存在を露にしているかのようである。まさにそれこそは、コンクリートから人知れず養分を吸い取るという、蔦の性質を具現化する行為とも言えよう。