ニュートロンアーティスト登録作家 足田 メロウ (平面)
今年のゴールデンウィーク@京都を盛り上げるのは、京都のシーンを牽引し続けて来たこの男しかいない!
2008年からの「Planetica」は自身にとっても代表的なシリーズとなったものの、彼はまた進化をやめず、新たな表現の領域を抽象的なイメージに変換して従来のポートレートとの対比を試みる。
彼が描くものはやはりどんなスタイルでもメロウの絵なのか、それとも見た事の無い風景なのか。
期待と不安の交錯する地点に自ら飛び込む彼を、刮目して見よ。
「赤」
2010年 / A4 ( 210mm × 297mm ) / アクリル、木製パネル
gallery neutron 代表 石橋圭吾
2008 年7月のneutron(京都)での個展「Planetica(#1)」は、後にシリーズ4まで続く連作の契機となっただけでなく、足田メロウにとっては久しぶりに鑑賞者に溜飲を下げさせることの出来た、充実した展覧会であったことを今でもありありと思い起こす。だがその一歩手前の地点では、彼は驚くことに絵を描くのをやめようかと真剣に悩んでいた時期があった。今にして思えばそれは単に一時の迷いと言うよりも、彼がこれからも画家として活動する限り付きまとうであろう、人生における根源的な悩みの現出であったのだが、私は当時彼の話し振りから今までに感じた事の無い深刻さを知り、彼という作家を世に送り出すべき自分の非力を随分嘆いたものである。ではその嘆きが今現在消え去ったのかと言えば決してそうではないのだが、結果として「Planetica」は彼自身の創作意欲を右上がりに持ち上げることになり、以後各地での発表に繋がっていったことは喜ばしいことであった。
足田メロウから私が折々に受けた衝撃や興奮は、なかなか一言では言い表すことの出来ない、原始的で能動的な刺激であった。詩人であり良き友人の豊原エスとのコンビで発表を重ねていた頃、メロウの絵は荒々しくも幼稚であり、攻撃的でありながら優しさを醸し出していた。京都を代表する美術系出版社「青幻舎」とのご縁で詩画集が出版にまで至り、当時neutron(新京極の5階にあった頃)で出版記念展をした時が一つの山の頂だったとすれば、そこから彼自身の創作は洗練を増しつつ、次第に刹那的なものへと変化していくように見える。彼はイラストレーターとしても優秀であり、アンデパンダンやアバンギルドといった京都のアンダーグラウンドシーンを代表する店でのイベントには欠かせない主役の一人であり、そこでは映像までをも用いてライブペイントを繰り広げる「とんがった」アーティストとしての顔も持つ。彼を慕うミュージシャンや舞台俳優、ダンサー、美術家などは数多く、今に至るまで連中は京都のシーンを支配して譲らない。足田メロウという小柄な人物は、大きな存在感を持って語られ、次第にあまりにも多岐に渡る活動と、そこから生まれる作品を包括的に追いかけることは至難の業となってゆくのだ。・・・彼にとって幸せな瞬間があるとすればまさに、作品を生み出したその時だろう。だがそれ以後、彼は自分の産み落とした作品を系統立てて見せたり包括的に管理することを苦手とし、結果として彼は出版された彼の一側面にしか過ぎない(しかし全国的に評価の高かった)面と、彼がリアルタイムで描こうとするもの(それは即ち常に変化する顔の様なもの)との微妙なギャップに戸惑い、やがて作家としての内面において自己矛盾とも言える状況に陥ったことが、絵筆を持たないとまで考える様になった一つの要因であったことは否めない。
しかしその状況を打破したのもまた、彼が描く絵でしかなかった。「Planetica」はそれまでの数年間、棘や荒々しさを失ったかのように見えた彼の絵に久しぶりの風を起こし、やがて家々の連なりの果てからおもむろに人物像が立ち上がり、カワグチタケシの詩「Planetica(惑星儀)」と同調しながら足田メロウ流の童話的世界観を広げていったのだ。彼にとってこれほどの長期間(それでもたった1年半だが)に渡ってシリーズを続けるということは極めて稀な経験であり、それは紛れも無く彼の今後の行く末を力強く指し示すという点で、強調すべきハイライトであったと位置づけるべきだろう。
だが実は、「Planetica」は「Planetica」のために出現した光景ではなく、彼が今まで描いてきたモチーフやテーマを、少しだけ整理して辿った道筋であったとも言える。何故なら「家」も「植物」も「鳥」も「犬」も「太陽」も、そして精霊や幻影のような人物像も、ことごとく彼がそれまでに描いて来た存在達であり、彼の描くテーマに何ら変化は見られないのである。変化しているのは彼の描くスタイルや技法であって、時々で印象が変わるのは、もっぱら彼の気ままな制作姿勢のせいでしかない、と言う事だって出来るのだろう。つまり私達は足田メロウという希代のアーティスト / パフォーマーに思うままに遊ばれているに過ぎず、彼は本当の意味では全く悩んでなどいないのかも知れないのだ。思い返せば彼の描いて来た絵には、喜怒哀楽はもちろん、苦悶や迷走、混沌から萌芽まで、この地球に生きる人間としての私達が経験し、共有すべき事が全て現れているではないか。だとすれば彼のスランプは私達の苦難であり、彼の活躍は私達の目の前を照らす希望となろう。
そして今、彼が自分のとっておきの発表のために考えておいた「mellow tone」というタイトルが用意されたこの個展に、私は三たび胸を躍らせるのである。