ニュートロンアーティスト登録作家 もりや ゆき MORIYA YUKI
「陶」を制作の出自としながらも、その表現は平面、立体、インスタ レーションと多岐に渡り、 ダイナミックでありながら繊細な心の機微を表現する異色の作家。 あえて言うなら日常の空間に作品を設置することによって、私達の記 憶や異なる時間を呼び覚ます「彫刻」か。 今回は「窓」のシリーズから新作を展開。翻ったカーテンの向こうに 見えるものとは・・・?
ニュートロン代表 石橋圭吾
焼成された陶の筒のようなものを纏う、儚くも芯の強い樹木が小さな部屋にひっそりと、確かに存在し (2003年/「Rain forest」(The Room/京都)) 、干上がった川の流れの痕跡には、その記憶まで残っているようで(2003年/「水の痕跡」(画廊編/大阪)) 、小学校という過去と現在、未来が交錯する現場においては眠った時間と記憶を呼び起こし、今という時間を改めて想起させ(2005年/「来たるべき記憶」 (元・立誠小学校/京都))、何万年もの時間をかけて形成された氷山を思い、そこにしんしんと降り積もる雪の気配と、穏やかで実は激しい自然の時間の流れ を感じさせる(2006年/「静かな山」(neutron))。
これらの詩的な印象を読んで、皆さんはどのような作家のどんな展示を連想するだろうか。どれも繊細で、自然との関わりを慈しむような感覚を受け取らずには いられない言葉を選んでみた。でもこれらを「作品」として表現するとしたら、それは平面なのか、立体なのか、インスタレーションなのか。答えを先に出して しまうと、その全てである。もりやゆき(森家由起)は作家としての出自を「陶」に持ちながら、制作におけるモチーフやコンセプトはおよそ「陶芸」の域を超 えているものばかりであると言える。土を焼いて実現する作品もあれば、蝋を用いて既製の物を固めるシリーズ、LEDや自然光を用いたシリーズなど、手法も 様々であれば作品形態も平面から彫刻的なもの、野外での空間設営まで幅広い。近作ではグループ展や野外展が続いたせいか、自分の展示するスペースを「箱」 から設計して組み立て、その内部においてインタラクティブ(相互干渉的)な仕掛けを設置し、人が入って何かのアクションを起こすことによって作品が成り立 つという発表が多い。最近作では映像が主体となっており、実は今回の個展もまた、最終的には映像が作品の主軸に組み込まれる。
だが今回の個展は私がかなり強いリクエストをした過程があって、そのモチーフや展示形態が選択されている。普段はあまりそのような打診をしないのだが、も りやに関してはこの空間の中に空間を作る様な労力を浪費させたくないと感じ、一方で2005年のneutron 5F galleryにおける巨大なカーテンの作品こそが作家の一番の醍醐味であり、未だそれを超えるものを作家の後発の作品に見ていないことを伝え、双方の一 番出したい・出させたいものが合致した結果、と言っても良いと思う。なので今回ばかりは私の責任も重大である。
しかし私は確信に近い思いでこの作品を待ちわびている。もりやゆきは陶芸家でもインスタレーション作家でもなく、彫刻家であると私は思っている。彼女が出 来る事、もしかしたら彼女しか出来ないこととは、自然の素材あるいは人工的な素材を有機的に組み立てたり宙に浮かすことにより、私達人間の細かな日常の感 覚を思い起こさせたり、遥か遠い記憶やまだ見ぬ景色を呼び起こしてもくれる事だ。それは前日まで何も無かったはずの日常的な空間に、突如としてもりやの手 による物体や仕掛けが存在することにより、その空間は昨日までとは違った意味を有することを示している。そして物理的に大きい作品が多いにも関わらず、そ こに表現される心象は極めて繊細で、小さな小さな心の機微をも表現し得ると言う事である。
カーテンと窓、そしてその先に見える何か。結果として確かな答えは用意されてはいない。ちなみに2005年のカーテン作品「life * red curtain」(neutron 5F gallery)では、小さくて四角い空間の中央に巨大なカーテンが翻った様を吊り、不安定で衝動的な心の突発的な揺れを見事に表現したばかりか、壁を隔 ててさらに小さな部屋の窓には、外光とカーテンの隙間に差し込まれた紙片のゆらゆらとした動きと影によって、意識の覚醒と不覚醒の際を穏やかに感じさせる ことに成功した。まさに同じモチーフでも硬軟自在である。
さて今回は、翻ったカーテンの向こうに何を見るのだろうか…?