neutron Gallery - 前川 多仁 展 『 - K I T S C H - 』 -
2010/5/25 Tue - 6/6 Sun gallery neutron kyoto (最終日21:00迄)
ニュートロンアーティスト登録作家 前川 多仁 (染織)

  日本の伝統的な染色技法と、最先端のコンピュータジャガードなどを駆使して構成される、極彩色のパノラマ的世界。
 そこに描かれているのは幼少の頃から今に至るまで、作家自身が夢とロマンと希望を託してきたモチーフ達であり、現代日本に欠かせない要素「キッチュ」の代名詞と言える数多の存在である。
 高尚と世俗、伝統と革新、そして美術と工芸の間を強力に突き進み、やがてキッチュの世界観を通じて新たな領域を切り開く。
 染織のジャンルにおいて革命児たらんとする作家がニュートロン初個展に挑む!



「合体変身!(アシュラロボ)」
2010年 / 25×260×170cm


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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 極彩色の、とりわけ真っ赤な染め物にキラビやかな金糸が施された作品は、その存在感だけで充分威圧的である。スペインの闘牛士のマントの赤は牛を興奮させるために選ばれたとされるが、日本でも赤(朱や紅を総じて)は国威発揚に用いられてきたばかりか、子供が見るテレビ番組においては必ず赤=正義の色とされ、五人組の戦隊ものでは赤は絶対的なエースとしての主役を張る。他方、赤は血の色を連想させるため、その使い方次第ではおどろおどろしく、グロテスクな表現へと一気に傾倒する危険性を孕む。テレビの戦隊ものの戦いでは決して血を流す場面は写されることなく、あくまでフィクションとして爆発してみせ、そうかと思えば倒したはずの魔人が巨大化して再度登場したりと、一気に現実から遠のきながらお約束のフィニッシュへと向かうのである。赤は正義の味方たらん子供達の中でも選ばれた一握りしか身に纏う事を許されない色であり、多くの控えめな子供達は青や緑、女の子はピンクに甘んじて役柄を全うせんとする。赤は勇者の色であり、覚悟を表す色でもある。

 前川多仁の用いる赤はもちろん、現代美術を通じて強いメッセージを発する上での覚悟の色である。と同時に、彼はまさに上述のテレビヒーロー達に魅入られて育った世代でもあり、カラーテレビによる恩恵とその裏に潜むコマーシャリズムの影響を多大に受けて育ったことは見逃せない。彼が伝統的な染めの技法である「ろう染(ろうけつ染)」を習得しながらも一方ではコンピューターを使った先端の染織技法を取り入れ、虚実ないまぜに構築する作品において、アナログとデジタルが混在しながら破綻することなく強固なオリジナリティーを発揮しているのも、おそらくは自然なバランス感覚として幼少の頃から接して来た文化や娯楽を分け隔てなく融合させているからこそであり、それが時代のリアリティーを正直に反映しているのである。

 彼の用いる「キッチュ」という単語は聞き慣れている様でなかなか用いる場面は少ない。ウィキペディアによれば「美学・芸術学において、一見、俗悪、異様なもの、毒々しいもの、下手物などの事物に認められる美的価値である」とされ、「芸術作品や、複製技術の発達した近代・現代の、大量生産された工芸品などに見いだせることがある」と続く。つまり本来の手仕事によるアート(arte=ギリシャ語語源で「手」を表すことばから)と区別されるのは、20世紀の近代工業の発達による消費の一元化、ものづくりの大きな変革から派生した概念であることは間違い無い。前川が言う様に、日本人は侘び寂びを古来から美徳として大事にしながらも、一方では大衆文化において脈々とキッチュ的な価値観を受け継いできており(「傾き」→「歌舞伎」も代表例として挙げられる)、殊更近代工業の発達以降は大量生産、大量消費のシステムによってキッチュは確立され、一気に身の回りに溢れたのである。陳腐なのに愛すべきもの。決して現実には訪れないであろう興奮・高揚感を気軽に再現するイメージの氾濫。それを卑下するのは簡単でも、実際に今現在に至る日本の文化からそれを排除することは極めて難しい。もはや現代日本人のDNA には動かし難い位置に植え込まれたキッチュの遺伝子は、子供ばかりか大人さえも虜にしながら日本全土を制覇しているのである。

 勇壮なデコレーショントラックや、格闘技の入場の際に戦う相手を威嚇し自分を鼓舞するための衣装のケバケバしさ。あるいはラブホテルという日本独特の文化発信源の佇まいの不思議さや、インターネット上の仮想空間における数多のサービスの過度な広告性・娯楽性などにおいても、説明不要のキッチュが浮かび上がる。日本経済・文化は伝統美や先端デザイン・アートにおけるスマートさをいくら訴えても、大衆の望み/生み出すサブカルチャーの孕むキッチュの精神の前には、本能的に太刀打ちできないのでは、とさえ思ってしまうほどである。だとすれば、前川が美術と工芸の狭間で、上質と卑下を布一枚の中に渾然一体と織りなす様は、それそのまま日本の文化と美的なものの変遷を表していると言えなくもないだろう。登場するキャラクターやモチーフには子供騙しを超えた切実な存在意義を見出すことが可能であり、実際にそれらに囲まれて社会へと巣立った私達のタイムカプセルのごとく、見過ごせないものばかりである。まさに私達現代日本人にとっての押し入れの財産として、あるいは心の中の秘宝として色あせることのないロマンが、そこには在る。絢爛豪華な色彩と細やかなディテール、確かな技術と革新的なアイデアによって生み出された21 世紀のタペストリーには、現実と向き合う上で大切な勇気と愛とハッタリが溢れている。金色の布団で見る夢は、戦国時代の織田信長のそれに匹敵するだろう。