neutron Gallery - 前川 多仁 展 『 - K I T S C H - 』 -
2010/5/25 Tue - 6/6 Sun gallery neutron kyoto


profile
前川 多仁 MAEKAWA Kazuhito

【略歴】
1974 兵庫県篠山市生まれ
1997 大阪芸術大学 芸術学部工芸学科染織コース 卒業
1997 大阪芸術大学 芸術学部工芸学科染織コース 研究生(〜1998 まで)
2008〜 大阪芸術大学大学院 博士課程(後期) 在籍中、(修士課程飛び級により入学)
2008〜 大阪芸術大学大学院 TA(ティーチングアシスタント)

【主な個展】
1997 「前川多仁展」 / 神戸三宮高架下(神戸)
1998 「前川多仁展」 / ギャラリーマロニエ(京都)
2001 「前川多仁展」 / セレクトショップ「SHIPS」京都店(京都)
2004 「前川多仁 ろう染展」 / 同時代ギャラリー(京都)
2010 「前川多仁 ろう染展 -KITSCH-」 / ギャラリーマロニエ(京都)

【主なグループ展・受賞歴】
2001 「21 世紀アート大賞 2001」・奨励賞
1997 「世界工芸コンペティション 金沢」
2002 「100 oeuvres」(パリ・フランス)
1997 「ビエンナーレ KUMAMOTO」
1997 「日仏アートサロン 2002」
2003 「出会いのあーと展」(但馬)・買い上げ賞
1997 企画展「大阪芸術大学連携展/ 染織の尖鋭たち」 / 主催:豊中市教育委員会 協賛:大阪芸術大学
1997 「第6 回 川の絵画大賞」
2005 「東京コンペ#2」(東京)
1997 企画展「あやなす展 10人展」 / 海岸通ギャラリーCASO(大阪) 後援:大阪芸術大学
2006 「4th INTERNATIONAL FIBER ART BIENNIAL -FROM LAUSANNE TO BEIJING」(蘇州・中国)・優秀賞
1997 「篠山市展」・兵庫県知事賞
2007 「”世紀のダビンチを探せ! ”国際アートトリエンナーレ」 主催:大阪芸術大学
1997 「3rd EUROPEAN TRIENNIAL TEXTILE AND FIBER ART」(リーガ・ラトビア)・特別賞
1997 「朝日現代クラフト展」・優秀賞
1997 企画展「あやなす 前川多仁・安岡梢 展 〜染織の奇襲〜」 / 千疋屋ギャラリー(東京)
1997 1997 1997 主催:あやなす展実行委員会・千疋屋ギャラリー 後援:大阪芸術大学
2008 「5th INTERNATIONAL FIBER ART BIENNIAL -FROM LAUSANNE TO BEIJING」(北京・中国)・優秀賞
1997 「SCYTHIA 7 -THE SEVENTH INTERNATIONAL BIENNIAL ON CONTEMPORARY TEXTILE EXHIBITION & CONFERENCE」(ヘルソン・ウクライナ)
1997 「VALCELLINA AWARD -INTERNATIONAL TEXTILE / FIBER ART COMPETITION」(マニアゴ・イタリア)
2009 「あやなす十周年展」 / 大阪芸術大学ほたるまちキャンパスギャラリー(大阪)
1997 「第17 回 染・清流展」 / 染・清流館(京都)
1997 「TEXTILE MEETING 09’」 / 元立誠小学校(京都) 企画:辻喜代治/ ジ・オフィス
2010 「4th RIGA TRIENNIAL TEXTILE AND FIBER ART」(リーガ・ラトビア)出品予定(7 〜 9 月)
1997 「富士山展」 / neutron tokyo(東京)
1997 「VALCELLINA AWARD -INTERNATIONAL TEXTILE / FIBER ART COMPETITION」(マニアゴ・イタリア)
1997 「ECHO TOUR 2010」 / 京都府庁旧日本館(京都) 主催:京都府、府庁旧日本館利活用応援ネット

【主な著作、研究発表など】
1998.12 「月刊染織α」染織と生活社  「ロウケツで染めた日記的記録」
2007.3
2 「月刊染織α」染織と生活社  「ローザンヌから北京へー第四届国際繊維芸術双年に参加して」 
2007.72 「3rd EUROPEAN TRIANNIAL TEXTILE AND FIBER ART(リーガ・ラトビア)」国際会議にて
1998.12 小論「Contemporary and Fiber Art」発表 
2009.92 「TEXTILE MEETING 09’」アーティストプレゼンテーション(京都芸術センター)にて
1998.12 小論「キッチュと工芸」発表 

【パブリックコレクション】
兵庫県養父市



statement
『前川多仁展 −KITSCH−』

日本の着物などで使われる染織技法「ろう染」を中心とした染織作品を制作。近年においては、シルクスクリーンプリント、インクジェットプリント、コンピュータジャガード織りなどの技術を取り入れ、ろう染の手仕事とコンピュータテクノロジーによる機械の作業を複合させる作品を展開。工芸と美術の中間性、伝統と革新の複合性、精神と身体と機械の複合性などをキッチュをキーワードに研究し、現代美術における染織工芸の可能性を探る。おもにマンガ・アニメ・特撮・ゲーム・音楽などのサブカルチャーから多くの影響を受ける。

※ろう染・・・一般にいう「ろうけつ染め」のこと。近年、「ろう染」として国際的に言語統一しようという動きがある。




【制作テーマ「キッチュ」について】

「タオルケットとしての神」

先日、なんとなく京都の三十三間堂のガイドブックを手にした。1001体あるという千手観音の迫力に改めて心を奪われた。その直後、曼荼羅を立体的に表現したという東寺の仏像群の映像がテレビで流れ、映像にもかかわらず魅了された。それらのきらびやかな世界は「侘び・寂び」とは全く正反対にある日本の芸術の一面を再確認したようだった。ただ不思議なのは、それら仏像としての宗教的意味には興味がわかなかった。

日本の工芸では「侘び・寂び」がおおよそ重視されてきた。これには茶の影響が大きく考えられ、派手さや豪華さは排除される傾向にあった。さらに近代では日本の多くの工芸は他の芸術と同様に西洋文化の影響を受け、精神性の極致をめざすべく、生活という身体性を捨てて純粋芸術の領域へ向かった。一方で生活に拠点を置く大衆芸術の領域にとどまった工芸品は低俗なもの、俗悪なものとして芸術のメインストリートから外れてしまった。そしてこの低俗化や俗悪化に機械の複製技術の発展が拍車をかけることになる。このようにして派手さや俗物性などのようなキッチュ的な要素は、工芸の根本的な要素の一つにあるにもかかわらず芸術として評価をえることはほとんどなかった。しかしキッチュは生活とともに身近に確実にあり、いきいきとした生命力を放ち続けてきた。その系譜はさらに機械化された現在の消費社会においてサブカルチャーの中で受け継がれ、その魅力を私に見せつける。私が工芸というあいまいな分野に惹かれる理由がそこにある。

今回の個展では、とくにヒーローについて考えてみた。子どものころ、特撮ヒーローやアニメのヒーローがプリントされたタオルケットでよく寝ていた。そのタオルケットで体をおおうと不思議に強くなった気分になって、恐怖の真っ暗な夜にも勇気をもって挑めた。そして夢の中で無敵のヒーローになり、何度も地球を救ったものだ。

テレビの中のヒーローはいうまでもなくキッチュな存在である。戦闘には目立ちすぎる姿、大げさな武器や変身ポーズ、張りぼてのような乗り物やロボットはキッチュとしか言いようがない。キッチュには「まがいもの」という意味が含まれるが、これはホンモノへ対して憧れ向かうベクトルのようなもの、たとえばサルトルのいう意識の中の対自存在がホンモノである即時存在に憧れ向かっていくというような方向性を持った力ではないかと私は考えている。つまり、テレビのヒーローの派手で大げさな造形や動作は、ホンモノの強さへ憧れ向かう生命力の表現の一片であると考える。プリントという機械の複製技術で量産されたタオルケットのヒーローはテレビの中から離脱してさらにキッチュ化し、身体をとおして私の心の内へ入り込みホンモノの強さにますます近くなる。こうしてキッチュは機械⇔身体⇔精神のあいだを自由に行き来して、何重ものキッチュ化が繰り返され、ホンモノへ近づいていこうとする。キッチュはまがいものとしての宿命を背負い、ホンモノには永遠にたどり着くことはできないが、それゆえに永遠に憧れのベクトルのような生命力を放ちつづけるのである。

情報化社会がますます発展するなか、神はいっそうキッチュ化し、私たちの心の内にまがいものの神としてある。それはホンモノの神から離れ、むしろ神というよりは無敵の強さを誇り、いつでもピンチから救ってくれるヒーローと化して存在しているのではないだろうか。「マジンガーZ」の魔神、「六神合体ゴットマーズ」のゴッド、「ゲッターロボ」のゲッター(ドイツ語で「神」の意)、そして「新世紀エヴァンゲリオン」のエヴァの元であるアダムなど多くのアニメが表わすように、私たちはいつしかヒーローの背後に神をみているのである。それゆえ私がみた三十三間堂の千手観音や東寺の仏像群は私の心の内のヒーローと化した神と共鳴し、キッチュという憧れの生命力をいきいきと、そしてきらびやかに私に放ったのであろう。私がそれらを改めて目にしたのが実物ではなくガイドブックやテレビという、もう一段階キッチュ化した媒体であったのも皮肉なことである。キッチュはまがものゆえにモノとしての己の意味を軽く飛び越え、造形性だけで人々の心の内に入りこむことができる。こうして千手観音や仏像群は本来の宗教的意味からすっかり離れてしまい、タオルケットのヒーローのように完全無欠のヒーローとなり、その無敵の強さはいっそう私を魅了するのである。