ニュートロンアーティスト登録作家 千光士 誠 SENKOJI SEI
個性という無責任な言葉に迷わされ、集団という言葉にネガティブな意味を含む現代。千光士誠は今だからこそ、危険な香りを漂わせる濃密な人物像を、「集団」として提示しようとする。
そしてその集大成とも言える今回の発表は集団を構成する「超、個 人」の在り方をいかに見せるのか?
個展が相次ぎ充実の1年となった2007年を過ぎ、いよいよニュー トロンに熱い衝動を持ち込む!
ニュートロン代表 石橋圭吾
この男、およそ2年前には関西のアート界において全く無名だと言っていい存在だったにも関わらず、わずか1 年半の短期間のうちに、大阪・京都の名だたる画廊において個展を自主開催、一躍その名と存在感のある作品を知らしめて来た。彼は一体何者なのか?と訝しがる人も少なくあるまい。
私と彼の出会いもまた、彼が怒濤のごとく発表を続けていく矢先の事であった。ある日、本人からもらったメールがきっかけで彼の作品が掲載されている自作サイトを覗き、そこで今もなお記憶に新しい衝撃を受ける。モノトーンの抑えた色調ながら強烈な存在感を発する人物像。それは大阪の鉄秀(てっしゅう)や京都の足田メロウらアンダーグラウンドを代表するアーティストの駆け出しの頃の熱い息苦しさを感じさせ、同時にそれをコラージュして地下鉄の駅構内に大々的に掲示されている様子を(本物と見まがう様に)ネットで公開するなど、知略的な一面も強く感じさせる。これは後に本人に会った際に話を聞いて納得したのだが、彼は東京で制作活動をしていた時代、デザインの領域にかなり足を置いていたようで、なるほどそれなら最新の技術を軽やかに使いこなす無骨なアナログ作家という(相反した) 印象も間違ってはいないのだ、と頷くのであった。当時は中山ダイスケらとの親好もあったようで、美術に限らずアート / クリエイティブシーン全般の動向を一時期に体験してきた人間であると言える。
その彼が、今は関西に居を移し、まるでゲリラ活動の様に次々とギャラリーを制覇していく様は異様にも見えるが、実は彼なりに地に足を付けたマイペースな活動なのかも知れない。このニュートロンでの企画展に至るまでの関西での全ての個展を私は見て来たが、作品の見せ方(存在のさせ方)に強く拘りを持つ作家意識に感銘を受けつつ、同時に個展を開催したどの画廊においても、少なからず物足りなさを感じた。それはすなわち、彼は案外周りに気を使いすぎるタイプで、空間を考えすぎるあまりに作品本来の力を発揮しきれずに終わっているとの印象を持たされたからである。だからこそニュートロンでは、彼の作品の発する匂いや息、心臓の音まで感じさせたいと願わずに居られない。 ゴリゴリと力強描かれる人物像は実は繊細さを兼ね備え、男性的でありつつ女性的なナイーブさを持つ、いわば中性的な、あるいは人間としての根源的な存在にも見える。これは彼も意図するところでは無いかもしれないが、どれだけ無骨や粗野を装ってみても消し去れない「品」のようなものが彼や彼の作品から感じられて仕方がない。そして私はそれを否定的ではなく、肯定的に捉えてもいる。
彼の描く人物像はある時は座り、ある時は立ち、ある時は顔だけで存在するが、どれもが自らの存在とそれらの集合体(集団)としての存在を誇示せんとしている。彼の言う「この時代に集団を意識する事」は容易ではないように思えるが、集団=悪というようなイメージが蔓延する今の時代に、時代の変革を促す様な集団(意識の高い個人の集まり)が求められている気もする。もはや世界中にネット網を張り巡らされて未開の地も新種の生物も期待できない今、世界はサッカー選手やポップスターをヒーローと崇めてはみても、すぐ側から彼らのフィクションと失墜を目撃する。そしてその繰り返しはやがて、英雄待望論をも滅ぼしかねない。千光士の描き出す個人の集まり=集団は、ドヤ街のおっさん達かも知れないが強烈な生の(あるいは性の)エネルギーを備えた危険な存在であり、それは今の時代のトレンドや「抱かれたい男性」とは百八十度異なるタイプの存在だろう。
だがもっともっと、彼の描く人物は進化すると信じている。生(性)や時代を超え、若冲の羅漢の様に愛され、森山大道の写真に映る人間の様に衝動的で、船越桂の彫刻の様に佇むものであったら良いと思う