2005年 画人日記(第64回) 「 ゲルハルト・リヒタ−展 」
場所 / 川村記念美術館
日時 / 2005年11月3日(木・祝)〜2006年1月22日(日)
開館時間 : 午前9時30 分〜午後4時30分まで
(入館は午後4時まで)※月曜休館
主催・川村記念美術館(大日本インキ化学工業株式会社)
今年のコラムのスタートは、昨年から 期待していたゲルハルト・リヒターの大 規模な展覧会の感想です。会場の川村記 念美術館は、東京から電車で1時間半、 最寄りの千葉県の佐倉駅から送迎バスで 20分程の遠方にある。美術館運営は、 日本の印刷関連の大手企業。
東京のギャラリーではこの展覧会に合 わせて昨年末、リヒタ−の新作展を開催 していた。川村記念美術館は、経営者の 美術品コレクションを常設とし、企画展 も行っている。美術館はゴルフ場が可能 なほどの敷地と、大変自然に恵まれ環境 が印象的である。
会場は、まずはコレクションの常設展 示から始まり、そのコレクションにはア メリカ現代アートの作家、ロスコの作品 で一部屋が埋まっているなど、充実した 内容。リヒターの展示作品は初期から最 近の作品まで、全貌が理解できるように セレクションされており、200号を超 える大作から小品までが並び、期待を裏 切らない内容になっている。
ゲルハルト・リヒターは1932年生 まれ。統一前の東ドイツ出身。ベルリン の壁が東西ドイツを分かつ前に西側へ移 住。初期の作品には、作風は現在とは違うものの、リヒタ−の作品の特性である写真的・映像 的絵画表現 に対するアプローチが見られた。ドイツで活躍するアーティストは、ヨゼフボイス など、コンセプトにユニークな感性のある人が多数いるが、今日の現代アートに至るまで、そ の影響は大きい 。
展示会場は体育館のように空間の広くて天井の高いスペースと、少しコンパクトなスペース に、作品が効果的に配置されていた。リヒターの作品は、特に見るものが対峙する作品ではな かろうか。作品から受ける瞬間的なインパクトの強さ、細部を見渡しての密度の濃さ。また近 くで見たり、遠くで見たりと、見る側にとって大変面白い体験をさせてくれる。
写真で表現出来る世界を絵画に置き換えて行うことではなく、絵画の世界でしか表現できな ことをリヒターはやろうとしているのだ。描く主体はリヒターではあっても、他人を驚かせる とか、注意を向けるとか、ビジュアルを通して視覚のマジックがあるのだ。見る人間を意識し た、作家としての客観的な視点が作品から感じられる。観覧者はそうした作家の意図とは別に 作品とコミュニケーションしながら、リヒターの術中にはまるのだ。
展覧会場を出て、敷地内のレストランで大勢の客の順番待ちをしてい際に、隣の美大生らし い男連れの一人が、「現在のアートの状況は、リヒターからヒントを得ているのではないか」 と友人に向かって話していた。自分は、発言者の言葉を決して否定する立場ではなかった。な ぜなら、現代アートの歴史の初期は、ちょうどリヒターの活躍した時期と重なり、彼に限らず、 この時期に登場した様々なアーティストたちから影響を受け、多くの才能がその後開花してい ったからだ。
ロック音楽の世界も50年代のプレスリーや60年代のビートルズたちのセンセーショナル な登場によって、その後ロック音楽は進化し、世界中に拡大した。現代アートも同様に、リヒ タ−をはじめ、多くのアーティストが次々に作品を生み出し、世代を超えて支持されている。 素晴らしい芸術作品は、大衆に支持されていく運命にあるのだろう。まだまだ日本で、ゲルハ ルト・リヒターの存在は、一般の美術ファンには知られていないと思う。
今回の日本での回顧展を機に、日本でも支持者が広まっていくことを望む。川村記念美術館 にはまだまだ展示しきれないくらいのリヒタ−の作品があるが、それをまた日本で見たいと思 っているのは私だけではないのだ、きっと 。
2005年 画人日記(第63回) 「 ケーテ コルヴィッツ展 」
場所 / 姫路市立美術館
日時 / 2005年11月2日(水)〜2005年12月24日(土)
午前10時〜午後5時(入場は4時30分まで / 休館日 : 毎月曜日)
主催 : 姫路市立美術館、読売新聞大阪本社、
美術館連絡協議会、大阪ドイツ文化センター
はじめて訪れる姫路市立美術館で、ドイツの作家の 展覧会を見た。その女性は、20世紀の第一次、第二 次世界大戦を体験し、激動の生涯の中で、歴史の証言 者としてメッセージ性の高い作品を残した。
版画、デッサン、彫刻を中心とした作品には、世界 中のすべての人に伝わる強烈なメッセージがある。誰 しも、ヨーロッパ諸国を巻き込んだ20世紀の悲惨な 戦争を知っているなら、コルヴィッツの作品の持つ歴 史的重要性を感じるに違いない。美術という観点から ではなく、現代社会に問いかけるパワーを持ち合わせ た作品として、幅広く見てもらいたいと思う。
会場は年代順に4つに構成され、その中にシリーズ 作品『職工の蜂起』、『農民戦争』、『戦争』、『死』 といったものも含まれる。この4つの作品は、どれも が当時のヨーロッパ社会の現状を強烈にとらえ、民衆 の怒りが表現されている。
画面に描かれた人物からは、悲しみの表情が溢れ、 コルヴィッツは生涯を通して、こうした社会の底辺に 生きる人々を描き続けたのである。モノトーンで描か れた作品には、写真の持つリアリティな表現力とは別 の意味での説得力がある。コルヴィッツの作品には、 貧しい農民をモチーフにしたオランダの作家ゴッホと 共有する精神性を感じる。
戦争という不条理な現実の前に、対抗する力を持ち 合わせない民衆が、当時の権力者に向かって徒党を組 み、勇敢に立ち向かう姿を描いた『職工の蜂起』には 心を揺さぶられるものがあった。戦争は権力者にとっ ては、勝者になれば利益を生むものであるかも知れな いが、多くの民衆は犠牲者となり、大切な家族や仲間 を失うことになる。コルヴィッツは、哀れな民衆や社会への思いを、作家として作品にするこ とを決意したのであろう。
約160点の展示作品の中で、民衆の悲しみをテーマとしながら、その極限は「死」をテー マとした作品へとたどりつくように思う。画面から、人物の背後に骸骨が存在し、死の世界へ と導こうとしているのが描き出されている。死を自覚した人間の妄想のようにも感じられ、見 るものの心情の奥深くにまで迫ってくる。
コルヴィッツは、ナチスから弾圧を受けながらも描き続け、第二次世界大戦の終わりと共に 亡くなるが、晩年、遺言として制作された「種を粉に挽いてはならない」にも見られるように、 母親の子供を思う愛情を通して、世界の人々へ、戦争の悲惨さ、人間の尊厳をテーマとしなが ら創作活動を続けた。
今回の展覧会は、日本では巡回展として企画。ケーテコルヴィッツの原画を見たことのない 方には、ぜひおすすめしたい展覧会です。
2005年 画人日記(第62回) 「 杉本 博司 時間の終わり 」
場所 / 東京 森美術館
日時 / 2005年9月17日(土)〜2006年10月2日(月・祝)
主催・森美術館
企画・森美術館、ハーシュホーン美術館・彫刻庭園
協力・日本航空、奥の松酒造株式会社、
シャンパーニュニコラ・フィアット
世界的な写真家、杉本博司の全容を知 ることができる展覧会とあって、アート、 マスコミ関係者で今、注目されている。 場所は話題の森美術館。この美術館は、 通常の美術館の在り方を変えていく新し い発想を持っていると思うので、今後の 動きが楽しみである。
世界的な写真家としての杉本の活動は、 各国の美術館で個展を開催したことでも 分かるが、写真のコンセプトが、哲学的 でユニークなのである。会場にも展示さ れている、人物や、野生動物などの姿を 作品化したものそれ自体を新たに写真で 作品化している。また自然風景や幾何形 体のシンプルな被写体を作品化したもの など、会場全体は、不思議な静けさで満 たされている。
今回展示されている作品の制作時期は、 1975年から2005年。この30年 間に及ぶ間の作品からセレクトされた。
とにかく、杉本博司の作品には、他の 写真との出会いとは違う、見た瞬間の驚 きがあり、その写真の世界に引き寄せら れてしまう。モノトーンの写真だからこ その効果だろうか、写真の内面の濃密な 空気を感じるのだ 。
おそらくこの写真家は、あらゆる事象に対する常識的な思考を一度リセットし、真っ白な中 で被写体と対峙することを前提としているのだろう。作品には余分なものは一切無く、見る側 の余計な関心の入り込む余地を与えない。フェルメールの絵画を見ているように、完成された 世界にしかありえない空気の存在を杉本の作品に感じることができる。
映像という世界で現実がどう変貌するのか、そうした好奇心と、被写体が持っている美の姿 を追求することに対して、一貫した姿勢が今回の作品全体から伝わってきた。そして、アート の領域での問題提示に止まることなく、作品の影響力は、国境を越えて幅広く共有されるもの であり、様々な分野の著名人がこの作家の作品から、世界の過去、現在、未来に対するメッセ ージを感じている。一人のアーティストの放つ作品がこうしていろんなつながりを持つことは 大変素晴らしいことである。
会場は、幾何形体の白い物体の作品からスタートする。今回は、かなり大きい作品が展示さ れているが、このシリーズも同様。2作品を左右に展示、それが6列ほどになって展開されて いるのだが、白い表情の物体の表面にできた質感や欠けの部分などがクリアに見えて、それぞ れのの作品が生命力のある人体のように思えてくる。
すでに作品として完成しているはずの、貴族たちの肖像、原始時代の猿人や野生動物のイミ テーション作品を被写体として撮り、オリジナル作品として提示している。貴族の肖像の作品 の解説文には、観覧者へのメッセージがあり、作品を見て「生きていると思える人がいるなら、 生と死の意味について考え直さなければならない」と書かれている。
杉本博司の創造は、これからも我々の無意識の領域に対する新しい発見を見せてくれるに違 いない。映像作品という分野の表現は、人間の思考を目覚めさせてくれるのに一番近い手段と 言えるかも知れない。普段、我々は時間に忙殺されて、思考する時間を持っていないというの が現状だろう。美術館やギャラリーは、そうした思考を見つめ直す機会を与えてくれるもので あり、杉本博司の今回の展覧会は、この作家を知らなかった人たちに対して、アートへの関心 を高めであろうし、またアートの威力を見せつけることにもなったと思う 。
2005年 画人日記(第61回) 「ホイットニー美術館コレクションに見るアメリカの素顔」
場所 / 東京 府中市美術館
日時 / 2005年8月27日〜2005年10月2日
主催・府中市美術館
現代アメリカのアートの歴史を振り返る時、そ こにはヨーロッパのアートの歴史への対抗意識が ある。第二次世界大戦を契機に、多くの文化人は アメリカへ亡命し、世界の中心もアメリカに移っ た。アメリカの資本主義の元に生まれた数々のア ートは、 それまでのアートそのものの概念をぶち 壊し、いい意味でアートの領域を幅広くし、様々 なジャンルとの融合を可能にした。それは、映画、 テレビのメディア、印刷技術の発達が作品そのも のに影響をもたらし、戦後の新しいアーティスト 達は、過去にとらわれず、表現の世界を変えてい った。
今回の府中美術館での企画展は、アメリカの現 代アートの流れを目撃する絶好の機会である。
会場自体のスペースは中規模だが、内容は大変 充実し、バリエーションもあり、見ごたえがあっ た。ハンス・ホフマンのように、原色を用いた抽 象的な大胆な作品や、エドワード・ホッパーのよ うに現代アメリカの裏側を捉えた孤独感漂う風景 画もあり、会場全体が、現代アートの図鑑のよう である。サイズも200号を超える巨大な平面作 品が会場のシンボルのように威圧感を放っていた 。
今回の展示作品が収蔵されているニューヨークのホイットニー美術館は、世界から年間60 万人以上の来館者があり、現代アートの代表的美術館として認知されている。ポロック、ロス コ、ジャスパー・ジョーンズ、ウォーホルなど、これらのアーティストの作品が入場料800 円で見ることができるのだから、全然高い気はしない。
個人的には、数年前に渋谷で見たホッパーの回顧展も素晴らしかったが、今回も原画を見て ホッパーが描く現代アメリカの繁栄の裏側にある、人間の孤独感や寂しさが画面から伝わって きた。ホッパーが描こうとするものは、現代アメリカと同様に世界の都会人に共有する心理で あるように思えてならない。
現代アメリカの作品は、素材や技術の新しさでリアルに時代を表現するものや、それとは別 に、そこに生きる人間の内面を追求するもの、大きく分けてこの2つに分類されるように思う。 20世紀までの絵画の流れを断ち切り、アメリカから発信していくアートの新しい流れという 大きな潮流の中で、今その歴史を冷静に見つめ直す時期かも知れない。
アメリカの自由奔放な雰囲気は、日本の戦後生まれの世代には魅力的であった。大胆な明る さとパワーを持ち、日本のカルチャーシーンにも多大な影響を与えた。50年代、60年代と アメリカは同時代の激動する時代背景を舞台にしながら、アーティストのメッセージは、シン プルに、ダイナミックにコミュニケーションすることを目指すようになっていく。絵画でも、 ヨーロッパの内面的な奥深さを感じさせるものとは対照的に、よりストレートに伝えることで、 現代アートは新しいメディアしての威力を発揮した。
21世紀。アメリカはどこへ向かうのだろうか。すでにインターネットが人間のコミュニケ ーションツールとして一般化し、世界中の人間との対話も容易に出来る環境が整備されている。 日本のアートの現状は、世界的な視点で見ると、アジアの現代アートの中の一部であり、日本 人アーティストが生産する多くの作品は、個人の力というよりも、蔓延する情報から何らかの 影響を受けた作品であることが発見できる。アメリカが、世界のアートシーンに与えたインパ クトに比べたら、日本人の作品は、比較にはならないだろう。やはり二番煎じの感じがしてし まうのだ。ただ、これからはデジタルも、アートの大きなカテゴリーの一つになるから、この 分野でなら世界レベルのアートとして日本人も活躍できると思う。
20世紀の産物として、今でもその力の衰えていないことを実証してくれたアメリカの現代 アートの作品群。現代アートは抽象的で分かりにくいと敬遠する人もいるが、見る側が視点を やわらかくしていれば、案外親しみやすさを感じるのではないか。現代アートに対する理解が ある社会こそ、成熟した社会と言えるだろう 。
2005年 画人日記(第60回) 「 -境界なき対話- アジアのキュビスム 」
場所 / 東京 国立近代美術館
日時 / 2005年8月9日(火)〜2005年10月2日(日)
開館時間 : 午前10時〜午後5時まで
月曜休館(但し9 / 19開館、翌日閉館)
※金曜は午後8時まで 主催・東京国立近代美術館、
国際交流基金、韓国国立現代美術館、シンガポール美術館
国のシステムの改正により、国立近代美術館 もより集客を重視する運営方式に変わった。そ のせいもあるのか、ここ数年、かなり内容のあ る企画展が開催されている。
今回の「アジアのキュビスム展」も充実度の 高い内容であった。全体の構成は「テーブル上 の実験」「キュビスムと近代性」「身体」「キ ュビスムと国土」の4つの構成から成り立ち、 アジアというカテゴリでテーマ別に紹介してい る。会場のまず最初には、ピカソ、ブラックら キュビスムの代表的作家が展示され、本展が始 まる。登場する作家は年代も戦前生まれ、戦後 生まれの実在のアーティストもいれば、またす でに他界したアーティストの作品もある。
アジアやキュビスム、単独のテーマの展覧会 は数多くあるが、今回のテーマは自分が知る限 り、美術館規模では、はじめてのような気がす る。
キュビスムの元祖ピカソには、その後の美術 界にセンセーショナルな話題を提供した作品に、 「アビニヨンの娘たち」がある。それまでの絵 画の常識をぶち壊し、新世紀のアートを生み出 した記念碑的な作品だ。20世紀は、ピカソを代表に、数々のアーティストが登場し、現代ア ートの作品としての表現方法、現代アートとのコミュニケーションなど、我々が現在の感覚を 形成するに至った、そのプロセスの始まりが20世紀初頭であった 。
会場に並ぶアーティストたちも、ピカソたちと同時代を生きてきた人や、学生時代に存在を 知った人もいるだろう。いずれにせよ、時代を超越したキュビスムの革命は、21世紀も現在 進行形であるということなのだ。会場に展示された中国や韓国、日本、タイ、スリランカ、イ ンド、フィリピン、ベトナムなどの諸国の個性的な作品には、3世代を継続するそれぞれの社 会性や色彩感覚が表現されていることと、画面には強い存在感を感じることができる。
今回のテーマの中でも「キュビスムと近代性」「身体」には、戦争による出来事やアジア諸 国の近代革命に対するメッセージを描いた作品が多い。そこにはアジアという全体を貫く歴史 観を感じるし、20世紀の大戦以後は、アジアが世界の経済・文化に影響力を与え続けてきた ことも、今回の作品のテーマからも納得できるのである。
キュビスムは、それまでの従来の絵画と違うところは、線と面による構成で成り立つ世界で ある。一見すると、幾何的で、記号化されたものが画面を支配し、難解な印象を与える作品で ある。キュビスムの作品に限らず、現代アートを見る側の視点は、風景や人物、静物を描いた 具象的な作品を見る目で同じように捉えることはやめたほうがいい。現代アートを楽しむポイ ントは、見る側も、現代アートを見る目のチャンネルにシフトすることである。そのためには ギャラリーや美術館でさまざまな作品を見る体験を持つべきであり、そうすることが自分なり の楽しみ方を発見することになる。また平行して、美術書や好きなアーティストの著書や本を 読むこともおすすめする。
ピカソたちが挑戦したアートの冒険は、今日世界のアートシーンに伝承され、新しいオリジ ナリティを生み出している。常識に対して、新しい思考を打ち出すことはいろいろと大変でが、 本人が自信を持ち、面白いと思って楽しみながらやっていれば、それは確かなものに変わって いくと思う。会期は10月2日まで。ぜひ会場へ行ってみてください。なお、本展は東京以外 では国内での開催予定は無く、その後、アジア2カ所で開催されることになっている。アジア の国でどんな反響があるのか楽しみである 。
2005年 画人日記(第59回) 「 時のうつろい 上野憲男展 」
場所 / 何必館・京都現代美術館
日時 / 2005年7月22日(木)〜2005年8月7日(日)
開館時間 : 午前10時〜午後6時まで
月曜休館(但し7 / 18開館)
主催・何必館・京都現代美術館
京都の祇園にある何必館・京都現代美術館は、同館のオーナーが自ら企画したアーティス トの作品を展示している美術館で、展示室の最上階には、畳敷きの茶室も設置してあり、オ ーナーの美術に対する奥の深さが感じられる。
今回は、北海道出身の作家、上野憲男の作品を展示。2000年からここ5年ほどの間に 制作された作品が並ぶ。まずは1階には、かなり号数の大きい作品がいくつか展示されてい る。作品紹介の文面にあるように、人間の感情を、詩情性のある世界で描かれており、作品 と対峙していると、静寂な時間の流れが存在し、日常の時間を動的な時間の流れとすると、 ここにはそれとは対照的な静の時間が流れている。 上野は、20代のはじめ自由美術展で、東京初台のオペラシティのギャラリーに常設展示 されている難波田龍起に注目された。どこか難波田の作風と共通する世界を感じさせもする 上野のだが、この作家の個性として、画面に独特のブルーが存在する。最近発売された作品 集を見ると、その個性の経歴は一貫したものがあり、作家の表現意識に一つの大きなテーマ があることが分かる。
ブルーを帯びた面には、いくつもの引っ掻き傷のような形跡が見られ、また白の色彩がフ ラットな状態ではなく、かすかに背面のブルーを感じさせる仕上がりになっている。上野が 表現しようとしている世界は、現代人の内面の感情、喜びや悲しみ、不安や希望が入り交じ り、複雑な心情を描こうとしている。スペインの作家、ミロの世界にもどこか通じ合うよう な上野の世界には、飽きのこない魅力が感じられる。 作家は描こうとする対象、色や形を突き詰めていくプロセスで、自分自身とのコミュニケ ーションがあるのだが、確かなことは言えないが、そうしたプロセスに時間を費やしたこと で、作品が研ぎ澄まされ、完成度の高いものになっていると思う 。
大きな空間よりも小さな空間の中に、しかも白い壁面に1点、この作家の作品が存在する ことを自分は望む。なぜならば、作品から伝わる詩情性豊かな世界が空間を満たすと思うか らだ。それは、ゴミゴミとした都会の片隅にあるカフェのようなスペースを想像する。セン スのいい店には、いい絵があるものだが、上野の作品は、人の心を豊かにする時間を生み出 す雰囲気がある。
現代人は、過密スケジュールの中で生活することを要求されている。そこから逃れること はできない。都会に生きる者にとっては、それが条件なのだ。特に情報化社会の現在、人間 が休める場所は限られている。そのわずかな休息の場所を、人間はいつも生み出そうとして いる。またそうしないと都会での生活は息苦しい。アートの存在が、豊かになれる何かを与 えてくれるものであるとするなら、たとえば上野憲男の作品は、それにふさわしいものであ り、ぜひ多くの人に見てもらいたい作品である。
アートは、展覧会場で受け身として見る側に終わるだけではなく、出来るなら、気に入っ た作家の作品を購入し、自分自身の作品としてとして長く付き合うことが、よりその作品の 価値を知り、愛することにもなる。ブランドものに恋い焦がれることよりも、一枚の絵に大 切なお金を使ってみることも一度試してみてはどうだろう。きっとブランドものよりも、一 枚の絵の方が付き合う時間は長くなると思うし、自分も豊かになれるのだ。
この夏、機会があれば、情報誌を片手に、あちこちの美術館やギャラリーに足を運ぶのも いいと思います 。
2005年 画人日記(第58回) 「 シュテファン・バルケンホ−ル 木の彫刻とレリーフ展 」
場所 / 大阪 国立国際美術館
日時 / 2005年4月22日(金・祝)〜2005年7月18日(月・祝)
開館時間 : 午前10時〜午後5時まで
(夜間開館 : 毎週金曜日午後七時まで開館)
入館は30分前まで・毎週月曜閉館
※7月18日(月・祝)は開館
この展覧会を見に行くことは、作家のこともよ く知らなかったので当初予定にはなかった。むし ろ、同じ時期にメインの企画展示室でやっている 「ゴッホ展」を東京に引き続き、再度見てみよう かと思っていたくらいだった。 しかし、こんな程度の期待でいたのが、実際見 てみると、ユニークな作品の数々に驚いた。告知 用のチラシから面白そうな匂いは感じていたのだ が、実物を見ると、その彫刻作品の一群は、雰囲 気をあたたかくし、人間味溢れるユーモアのある 作品である。自分の周りにいる観覧者は、おそらくゴッホ展の帰りに立ち寄ったグループが多く見 受けられ、そうしたオバさんたちも、ずいぶんと 感心して見入っていたようだった。
展示作品の中心は、木彫の人物(全身、大型の 顔だけのもの)が空間に配置されていた。大型の ものは、まるでイースター島の石像のようなイメ ージを感じさせ、異様な雰囲気が面白かった。
人間のありふれた表情や風貌を捉えたこれらの 作品だから、観覧者も自然にコミュニケーション がとれたのではないだろうか。別の展示会場では 建築物の彫刻の表面に色彩が塗られた作品があった。遠くから見ると、絵画そのものに感じる のだが、近寄ると、木彫の作業をした一枚の板の上に色彩が存在することが分かるのだ 。
こうしたアイデアを見事にすばらしい作品として仕上げることができるのは、センスの良さ もさることながら、オリジナリティのある作家としての力だと思う。いくらアイデアが面白く ても、それが作品として完成されていなれば、アイデアはアイデアでしかなく、不完全なもの として終わってしまう。アイデアをいかに作品として成立させるか。この重要な部分のプロセ スを時間をかけて模索することが大切なのではないだろうか。このほか、動物をモチーフにし た作品群もすばらしいものがあった。
ドイツ出身のこの作家のことはあまり知らなかったのだが、ゴッホ展の方が目的で来場した お客さんも、こちらの展覧会に足を運んでみてきっと満足して帰って行ったことだろうと思う。 今回の展示は、シュテファン・バルケンホールの本格的な日本でのはじめての個展となった。
優しい心を持つこの作家の作品は、部屋の中にふさわしいスペースがあれば置きたくなる作 品だ。彫刻的な作風と絵画的な作風がほどよくブレンドし、作品の周囲に心地よい雰囲気が出 ている。
メッセージ色の強い社会派の作品が現代彫刻には多いと思うが、こうした素朴な作品は、ビ ジュアル的なインパクトは鮮烈でなくても、ストレートに伝わってくる作者のメッセージに、 観覧者は共感する。アートの持つ力の一つとして、コミュニケーション力は現代アートにとっ て必要なものである。ドイツの作家だから、という意識の仕方ではなくて、観覧者は、人間が 表現した作品として、まずは素直に見ればいいのではないだろうか。そうすることによって、 作家と見る側との素直な対峙が成立することになると思う。
ゴッホのようなキャラクターとはまた違ったキャラクターとして、シュテファン・バルケン ホールの作品を、同じ人間の生み出した表現として見ることが面白いと思う。そこには名画と か、有名であるとかの価値観を外したころで対等に楽しむことができるのだ。
日本人は何かとブランドものやカリスマを好むところがあるのだが、これからは、今一歩、 自分が主体的にいいものを見ることを基本にしなければ、アートの日常も進化しないのではな いだろうか 。
2005年 画人日記(第57回) 「 ジミー大西作品展 」
〜キャンパスからはみだせ〜
場所 / 京都 JR伊勢丹・美術館「えき」KYOTO
日時 / 2005年4月22日(金)〜2005年5月15日(日)会期中無休
開館時間 : 午前10時〜午後8時まで
最終日 : 午後五時閉館(入館は閉館30分前まで)
主催 / 京都新聞社 / 美術館「えき」KYOTO
企画制作 : パステルアート
企画協力 : 吉本興業
ジミー大西はもともとは吉本興業のタレントで、 あるテレビ番組でアートに触れたのが、今日の活躍 のきっかけだった。会場には、若い男女の群れが印 象的で、それに混じって、高齢層の方が作品に見入 っていた。
独特の色彩感覚が強烈に画面を支配し、動物や花、 風景が描かれ、彼が素直に見たものの感動を絵画に している。こうしたタレント出身の作家は、数多く いるが、その中には、趣味を生かした自分の隠れた 才能をアピールし、さらなる人気拡大を目的として いる方もいる。しかし、ジミー大西は違った。ます ます絵画に熱中し、タレント業からアーティスト活 動に専念していったのである。
彼の好奇心は、ピカソの故郷、スペインへと向か い、自らの絵を描くという行為を模索することとな る。岡本太郎との出会いは、彼の作家活動の出発点 となり、岡本から彼へのメッセージとして『キャン バスからはみだせ』というキーワードがその後の彼 の指標となる。
年代順に構成された会場には、同じような雰囲気 の作品が延々と続くが、一つ一つの作品を近くで見 ると、彼の作品の変貌がよく分かるのだ。独特の色 彩感覚はそのままで、作品としての完成度が徐々に 高まっていく。それはより細密に、描きたいテーマ がはっきりとしてきたということだ。
自分が何を表現したいのか。この大切な問いかけ は、何もアートの世界に限らずあらゆる世界において大切なことなのだ。彼は夢中になっ て描き続けていく中で、研究を重ね、表面的ではない本当の個性的な作品を生み出してき たという証しなのだろうと思う。
彼が世界中を巡り、出会った人間や自然の風景に感動し、日々新陳代謝していく自分を 感じる活き活きとした生活が、何よりもそうした現在の彼をつくる要因になっているのだ。 絵に向ける彼のやさしい眼差しも、きっと外部のものとの出会いから影響され、それが内 面にある創作のエネルギーとなって爆発するのだ。縦横無尽にジミー大西の世界は解き放 たれ、ここ数年の活動ぶりは、まさに絶好調だ 。
表現手段も多才になってきた。絵画はもちろん、オブジェやリトグラフ、子供達と楽し く共同制作している作品も数多くある。大胆でユーモアもある作風は、きっと子供の眼に も興味が高まるのだろう。昨年、彼が東京の街を巡りながら、東京をテーマにした作品を 描くというテレビ番組があり、見た記憶がある。浅草の雷門や警視庁、日本銀行などの付 近でスケッチし、時には休憩中に近所のデパートでコロッケを買って食べる場面もあった。 この完成した原画も会場に展示されていた。
人生の途中から思わぬ展開があり、それによって自分の世界が変わることは、誰しも予 測できないから面白い。自分が好きなことをやって生活していける人は、お金持ちでなく ても幸福な人だ。お金よりも大切なものがあることを、ジミー大西は現在体験している。 何かに夢中になれるものを一つ持っていれば、人生は豊かになるのだ。
日本人をみていると、この間のJRの事故が象徴しているように、時間と金に追われ、 日々忙しいさだけで過ぎていく。多くの人は、つかの間の安らぎを求めて、ゴールデンウ ィークに海外へ逃亡するのも納得がいく。日本が経済的な豊かさ以外にも、豊かになれる のは、それは芸術やスポーツの世界であることを知っている。そこには人間の精神を解放 させ、自由に想像力を放つことができる空間があるからだ。
楽しく絵を描いているジミー大西。この先も、岡本太郎のメッセージ『キャンバスから はみだせ』の答えを見つける旅を続けるのだろう 。
2005年 画人日記(第56回) 「 ゴッホ展 」
場所 / 東京 国立近代美術館
日時 / 2005年3月23日(水)〜2005年5月22日(日)
開館時間 : 午前10時〜午後5時まで、木・金は午後8時まで開館
(入館は30分前まで)
主催 / 東京国立近代美術館
後援 / 外務省 / 文化庁 / オランダ大使館
ゴッホの作品を見る機会は、10年周期で訪れる ように思う。最初は、中学二年生の頃で、自分が油 絵を描きはじめた頃で、絵に対する興味が出て来た 時期だった。次は20歳の頃、そしてほぼ10年前 の愛知県の美術館で。で今回の東京国立近代美術館 となるわけだ。自分自身の生活の新しい展開が起き る時期と、ゴッホの作品を見る時期が重なって、こ れも縁かなと思う。
東京で見た「ゴッホ展」は、客観的な視点が感じ られた展覧会だった。何が面白いかと言うと、ゴッ ホの作品が展示される中で、同時期の他の作家の作 品も随所に並べられているということだ。これが結 構分かりやすい構成にもなって、観覧車も興味深く 見ていたように思うのだ。ゴッホの展覧会は定番で あるのと観客動員を見込める作家であるから、美術 館も企画に力が入る。
ゴッホは元々画商からスタートした作家なのだが、 どうも仕事がうまくいかず、彼はキリスト教の伝道 師の道を歩もうとするが、これも彼の情熱とは裏腹 に挫折し、やがて彼は自らが創作すること、つまり キャンバスの中に自分の表現の居場所を求めること になる。
ゴッホが画家として残した多くの作品は、 その根底には一人の人間としての生き方が込められ、 あの独特のタッチにその時のゴッホの生き方が凝縮 されている。彼は初期には、多くの農夫や織り機を 動かす労働者を描いているが、作品のモチーフは常 にリアルで、生命力のあるものに仕上がっている。
会場には、今回のメインとなる代表作品『夜のカフェテラス』の前には多くの観覧車が 集まり、見入っていた。ゴッホは亡くなるまで、ヨーロッパの各地を移動したが、この作 品は、オランダからパリへと移り、そこで知り合ったゴーギャンなどの画家達との交流が 盛んだった頃に描かれたものである。35歳の短い人生の中で、このパリで過ごした時間 は、ゴッホにとって、充実し、その後の画家として素晴らしい作品を生み出していく転機 になったような気がする 。
画集や、雑誌などで見るゴッホの作品は、色鮮やかな色彩が印象的で、それなりに充分 魅力を感じるが、やはり生の力には勝てないのだ。あのタッチをダイレクトで見ると、作 品に生命力を生み出す源泉となっていることが納得できる。全体としても凄いし、作品の 一部だけを見入っても凄い。
情熱的で短気な印象のゴッホというキャラクターは、人間性ではそのような印象だが、 画家としてのゴッホはいつも理性的で、研究心に溢れる作家である。それは特に晩年の作 品に見る事ができる。彼には、他の作家の作品をアレンジし直したものが何点かあるが、 その作品は、まぎれもなくゴッホの個性で完結された作品となっている。私が好きなのは ミレーの『種をまく人』である。彼のすべての作品の中でも、ベスト10に入る作品だと 思っている。太陽がものすごく前向きな光を感じさせ、大地の上を歩む農夫も、生命力を 感じ、自然の美しさと人間が融合した風景をゴッホ独特のタッチで描いている。今回、こ の作品や自画像、『糸杉と星の見える道』など代表作品を見ることができるので、ゴッホ ファンには絶好の機会である。
パリを離れ、南フランスのアルルから、最後の居場所となるオーヴェール・シュル・オ ワーズまで、ゴッホは数多くの人物画、風景画を描いている。それらの土地で出会った人 間と自然にたいする愛情に対する、彼の敬愛をを込めた作品であると私は今回の展覧会を 見て感じた。この次、巡回先の大阪で再度見れるので、大変楽しみである。場所が変われ ば、また違った発見があるかも知れない 。
2005年 画人日記(第55回) 「 オノデラユキ写真 」
場所 / 大阪 国立国際美術館 : B2階展示会場
日時 / 2005年2月5日(土)〜2005年4月17日(日)
開館時間 : 午前10時〜午後5時まで
(入館は30分前まで)
夜間開館 : 3月11日、18日、25日午後7時まで
(入館は30分前まで)
主催 / 国立国際美術館
協賛 / (財)ダイキン工業現代美術振興財団
資生堂、キャノン株式会社
2003年に第3回木村伊兵衛賞を受賞 したオノデラユキの個展が、昨年移転リニ ューアルオープンした国立国際美術館で行 われていた。
私自身、作品そのものを見るのは初めて なので、とても楽しみであった。地下2階 の会場には、常設展示のブースの左隣でオ ノデラユキ写真展が開催されていた。全体 を見ての印象は、まず作品が面白い、そし て発想のユニークさ、斬新さがあり、会場 全体がオノデラワールドで統一されていた。
会場に入り、目に入るのが、代表作の〈 古着のポートレートシリーズ〉である。これはオノデラユキの作風が楽しめる作品で ある。
日頃目にするごくありふれたモノや 風景が、異次元の空間に変化してしまう。 その古着(たとえばシャツやコートなど) が人体の存在を感じさせながら、空を背景 に浮遊しているという、大胆な印象を記憶 に残す。
映像としての面白さがこれだけ伝わって くる写真は、私がこれまで見た様々な写真 表現でも際立っている。オノデラの個性は、斬新な表現の中に、オーソドックスはイメー ジもあり、この作者の作品の面白さは大衆に伝わるだろうと思った。
歯ブラシや日常の生活用品が置かれているごく普通の部屋の風景を表現したいくつかの 写真は、今回の全作品の中でも、特に好きなものだ。その写真はまるで生き物のように存 在し、生命力を潜めた物質として映像化されている。オノデラの狙いは、これらの物質を 際立たせるための演出として、周囲の光をトーンダウンし日常空間を怪しげな空間に変貌 させて、視線の方向を中央に決定づけている。
我々が日常の中で接している風景を、アートとして技術を駆使し、想像もしていない表 現を生み出すオノデラ。
「カメラ」という装置の発明によって、20世紀以降発展してきた写真表現も、その領 域はここに来てより映画的、絵画的なものが出現している。オノデラユキの今回の個展は 現在までの活動の集大成的な面もあるが、これからもより個性的なオノデラワールドを築 いてくれることが確信出来る。よくこのコラムで書いていることだが、21世紀を境界と して、日本人作家はよりグローバルに、よりジャンルを超えた表現を自信を持って形にし ていることである。こうした状況は、アートの世界でもいい傾向であると思う。新しい世 代の作家として、オノデラユキは、益々その活躍が期待される。
写真表現の現状は、映画やインターネットなどのネットワークを通したりして、最終的 な表現手段も目的に応じて分かれている。1枚のディスクに、膨大なデータが保存される 現代は、今後どのように進化して行くのか、興味が尽きない。こうした時代に登場したオ ノデラユキの写真表現は、ドキュメンタリー写真のようにあまりに挑発的でなく、政治的 メッセージの濃いものではない。しかし充分に現代社会と未来を示す作品として存在価値 がある。
やがてまた新しいメディアの登場によって、オノデラユキは刺激を受け、またまた魅力 的な表現を魅せてくれるに違いない。会場の最後部に展示してある人物のシルエットによ る作品は、作者の人間に対する意識の深さを感じた。そしてもう一つ、タイトル〈関節に 気をつけろ!〉はサッカーの試合風景をひ、ボールが2つあるなど実にユニークな表現が 見れる。
まだご覧になっていない方は、シャープさとソフトさを兼ね備えたオノデラユキに大い なる興味を持って、この個展に参加してみてください 。
2005年 画人日記(第54回) 「 小林孝亘展―絵のうしろ 」
場所 / 大阪成蹊大学芸術学部 121教室
日時 / 2005年1月17日(月)〜2005年2月4日(金)
主催 / 大阪成蹊大学芸術学部 121教室
年が明けて、このコラムの第1弾は、注目の作家、小林孝亘。数年前から小林の作品は、 東京の西村画廊で見ていた。何とも言えない優しいタッチの絵画で、現代人の心にやすら ぎを与えてくれる、静寂な雰囲気を醸し出す。
今回は関西で初公開の「人物シリーズ」もあり、小林の活動の流れを追うことができる ように初期から最近の作品までを展示していた。作者自身が言っているのは「その形を見 たことによって感じた『何か』を描きたいという思い」である。我々鑑賞者はそうした作 者の制作心理を原画で見ることによって共感できたであろうか。ただ作者は、その「何か」 を具体的に述べておらず、制作者と鑑賞者の心に感じるものと言っているようだ。
新しい世代の中でも、小林の作品はおそらく現代の美術史の歴史の記憶に名を残すであ ろうことは推測される。なぜならば、優れた作品に共通する品格、技術、そして雰囲気が 存在するからである。小林の作品に惚れ込んだなら、ぜひ新作が見たいという気持ちが鑑 賞者に湧いてくる。それと、この作者の持つ作品の存在感を体験として忘れることはでき ないだろう。
ノンフィクションとフィクションの間を定着させたような作品は、直射した現実を画面 の中に再構築していくのだが、そのプロセスをきっと作者は楽しんでいるに違いない。自 分自身が、描くという行為を自問自答すると、明瞭な解答はすぐには出てこない。描くと いう行為は、もっと深めるなら「どうして生きているのか」というテーマにも通じるもの であり、人間としての精神の極みにたどり着くことであるのだから。小林の作品には、こ の時代を写し出す鏡としての力もあるようで、同時代を代表する若い世代のアーティスト の一人でもある 。
シンプルな空間と密度の濃い作品。「人物シリーズ」に登場する男と女も、眠っている ようだが、浮遊する身体には、現代社会の生と死の希薄さが隠されているようだ。これか ら数十年間に渡り、小林が活動していくとするなら、現在の作品がどのように変化してい くのか。とても楽しみである。
会場の2階には、いくつかの初期に制作されたリトグラフがあった。小品だがハッキリ と現在の作品に継続されていく作者の気持ちが表現されている。リトグラフの小品から分 かるのは、現在に至るまでの作者の描こうとする意図である。
海外で暮らした時に、小林が撮影した日常の風景写真が会場に資料としてあった。これ らを見ていると、我々が知っているありふれた風景の中に、作者のモチーフは存在するこ とが知らされ、普遍性のある作品は多くの人の共感を呼ぶことが再認識させられる。本当 のことは作者に聞いてみなければならないが「人物シリーズ」は、作者にとってタ ーニングポイントとなる作品ではないだろうか。これまでの作品で描いてきたものの成果 があるのと同時に、新たな展開を予感させてくれる。
20世紀の時代に登場したアーティストから21世紀に活躍するアーティストへ受け継 がれていく中で、日本の小林孝亘は、絵画の普遍性を備えたアーティストとして、世界に 共感を与えていくに違いない。
これから、どんな日常の風景の断片を描いていくのだろうか。とても興味がある 。
2005年 画人日記 (第53回) 「 フランス現代絵画の巨匠 ザオ・ウーキー展 」
場所 / 東京 ブリヂストン美術館
日時 / 2004年10月16日(土)〜2005年1月16日(日)
主催 / 石橋財団ブリヂストン美術館、フジサンケイグループ
後援 / フランス大使館
協賛 : 株式会社ブリヂストン
協力 : 日本航空
フランス現代絵画の巨匠、ザオ・ウ−キ−は 中国生まれの作家で、アート活動の中心はフラ ンスである。そのユニークなプロフィールから 分かるように、彼の作品には、アジアとヨーロ ッパのエッセンスが漂っている。
ウーキーの作風は、「和洋折衷」という言葉 のイメージがぴったり当てはまるような、独特 のものであり、こうした雰囲気が、幅広い支持 を得ているのだろう。晩年にいくほど、作品は 抽象表現の域を深め、余分なものは一切捨てた 純度の高い表現が並ぶ。
展覧会場の入り口付近には、フランスのシラ ク大統領からのメッセージが掲示されており、 ウーキーの作家としての偉大さが伺える。色彩 感覚が大変美しく、日本人の美術ファンにも、 作品の叙情性や水墨画にも通じる繊細と大胆さ が受け入れられるような気がした。特に、大作 を前にすると、作品とのコミュニケーションが 高まり、自分と作品とが一体化した空間を意識 した 。
抽象表現は、意味が分からないとか、美術と しての存在に違和感を与えると思う人もいるが、 そんな方にはザオ・ウーキーの作品に触れてほしいと思う。素直にアートとしての美しさに 共感を覚えるのではないだろうか。ウーキーの作品には人の心に伝わってくる“何か”があ るのだ。それは“力”となる“何か”である。日本人であるとか、そんな民族や国家を超え て伝わってくる、すべての人の心に“力”を与えてくれるのが、ウーキーの作品の輝きであ る。ウーキーが生きた時代は、第二次世界大戦の前後であり、詩人アンリー・ミショーに認 められ、パリで作家としての地位を確立する。
作品全体として思うのは、アメリカのモダン・アートや、シュールレアリズムの絵画の方 向よりも、むしろ印象派の影響を受けながらウーキーの表現世界が展開されていった。展示 作品の最後の方に、「クロード・モネに捧ぐ」というタイトルの作品があるが、これはやは りモネや印象派への敬愛を込めたタイトルである。この作品を見ていると、モネの描こうと した光の世界を、ウーキーの画法で描いた、という感じだ。
アートに接する喜びとは何だろう。人それぞれで答えは一つではないだろう。誰でもが美 術館で、ギャラリーで出会った作品に、心がときめく瞬間を体験することがある。その気持 ちにさせてくれたことが、作品に“力”があることの証しなのだ。ウーキーは、アートの “力”を伝えてくれる素晴らしいアーティストである。
歌でも、絵画でもそうだが、生の魅力には勝てない。生の歌声や作品を体感してみて、本 当にアーティストに“力”があるかが分かる。ウーキーの表現世界には、彼自身にしか生み 出せないものがある。
どんなアーティストであれ、過去の産物から影響を受けていない人はいない。ただ言える ことは、影響を受けていることと、ウーキーのようにその影響を完全に昇華し、自らのオリ ジナルとして表現していることは、次元の違う話しなのだ。
順路に従い、会場を見ていくと、ウーキーの表現には、時代の流行に振り回されることな く、現在の時間軸を超越した美の創造に出会うことができる。これから先も、ウーキーの名 は色褪せることがないに違いない。アジアから発信されたアートが、ヨーロッパで開花し、 現在は世界の多くの人に愛され続けている。
ウーキーの「和洋折衷」のような表現世界は、21世紀のグローバルな時代に、人々に共 有の喜びと価値を見い出させてくれた。ぜひまた作品と出会いたいものである 。