2009年 画人日記(第93回) 「鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人」
場所 / 東京オペラシティ・アートギャラリー
日時 / 2009/7/18(土)〜2009/9/27(日)
主催 / 財団法人東京オペラシティ文化財団
会場全体が、平面・インスタレーションのカテゴリーを超越し、彼女の内面から生み出された世界で統一されている。
この展覧会の作者鴻池朋子は、現代アートの先端でその存在感を際立たせている。彼女の作品と出会えば、誰もが、挑発してくるエネルギーを感じるのではないだろうか。作品は異様でスケールが大きく、モチーフには生物や骸骨が出現し。一見、グロテスクな雰囲気で、あまり気持ちいいとは言えないだろう。でもその強烈で独特な世界観が「鴻池朋子」なのだ。
人間の内面を地球としてイメージし、会場の4つのブースを物語性のある連動的な空間構成にしていた。
今回の展覧会のタイトルにもある「トラベラー」、つまり見る側が一人のトラベラー(旅人)として会場を行き交い、鑑賞することを前提としている。
会場には4つのメインの展示以外にも、作家澁澤龍彦の『狐媚記』の挿絵(ドローイング)も多数展示された。また実物大と思える、左右の襖に分かれる骸骨を描いた襖絵もある。すべての作品に共通する繊細で高度な技術と表現力が鴻池朋子の世界の源泉である。
2009年 画人日記(第92回) 「アバンギャルド・チャイナ - 中国当代美術 二十年 -」
場所 / 国立国際美術館
日時 / 2008/12/9(火)〜2009/3/22(日)
主催 / 国立国際美術館、国際交流基金
2009年の始まりは、アジアの現代アートの最前線を堪能できる見事な展示だった。
予告のフライヤーやポスターで惹きつけられたことが理由で、国立国際美術館へ出向いた。予想通りの完成度の高い作品が揃い、スケールの大きい創作意欲を感じた。
21世紀のアジアの現代アートは中国が先頭を走る。90年代後半からの加速度的な経済発展は、それまでにない繁栄と富裕層を生み出し、欧米とは別のアート市場が形成され、作品の価値も驚異的な金額で売買される。中国の経済発展は、昨年の北京オリンピックで頂点成し、その後は秋のリーマンショック以来の景気の低迷により、下降線をたどっている。
展示作品は、インスタレーション、写真、絵画、彫刻など、中国現代アートの最前線の作家が集まった。全体を形成する雰囲気は、外見の華々しい経済発展とは裏腹に、中国の現在の影の部分というか、文化大革命路線から市場経済導入への転換という、社会システムの変化に直面した人間の混沌とした心理が表現されていると感じた。
明らかに日本の現代アートシーンとの違いがある。古典を元に、現代の視点でアレンジした技巧的な作風が目立つ日本の作家とは違うものを、中国の作家からは感じるのだ。ポップな表現ではあっても、作品のメッセージはシリアスで重く、またそうした表面的な軽やかさと内面との「温度差」がまさに中国の作品の特徴であり、チャイニーズ・アートは21世紀の現代社会の鏡と言うべきかもしれない。中国はもはや21世紀を象徴する国であり、国際社会の枠組みに影響力を及ぼす大国である。
今回の作家は、中国の繁栄を体験したことで、現代社会の真実と嘘を暴くことを共通のメッセージとして放っているように思うのだ。アメリカ的な現代アートの作品は、おそらく50年代、60年代が主流である。そうした時代のアメリカと、現在の中国の現代アートを並べると見えてくるのは、時代に対する意識の違いである。「開放的なアメリカと、閉塞的な中国」というべきだろうか。展示作品すべてが優れた作品であり、会場の作品一つ一つを見ていると、出口まで1時間20分ほど経過した。
しかしこうも同じアジアの隣国でありながら、制作する作品から感じるものは違う。雑多な情報を吸収する量では、日本人はかなりのものがあると思うが、現実を正面から捉えるよりも、茶化すことを意識するように感じる。中国の作家は、現実を伝える視線はストレートで、表現手段はポップであっても、伝わるものはかなりヘビーである。
おそらくこの先、中国の現代アートはさらに傑作を生み出し、ヨーロッパやアメリカ、日本とは違う、独自の路線を行くことが予感できる。日本も戦後、思想的な転換があり、社会も変化した。しかし中国は大陸であり、歴史の重厚さ、人間の膨大な数など、圧倒的な潜在力を持っている。中国の凄さはこれからだなあ。アバンギャルド・チャイナ展を見て、そう思った。
本当に傑作が並んだスゴイ作品ばかり。これはかなりおすすめです。
2009年 画人日記(第91回) 「蜷川実花展 ー地上の花、天上の色」
場所 / オペラシティ・アートギャラリー
日時 / 2008/11/1(土)〜2008/12/28(日)
主催 / 財団法人東京オペラシティ文化財団、朝日新聞社
鮮やかな色彩。まるで液晶テレビのキャッチコピーのようだが、写真家蜷川実花の表現に最も適した言葉ではないだろうか。今まで雑誌や作品集でしか見たことのなかった自分は、今回の回顧展でその表現世界を一望することができた。会場はA〜Iのブースごとに作家の表現のプロセスを見るることができる。中には美大生時代のセルフポートレートや初期の作品もあり、最新作まで蜷川実花の世界を満喫できる構成になっている。
彼女が東京したのは、今から10年ほど前頃である。若手の写真家として注目され、たちまち時代の先端で活躍する売れっ子になった。最近では映画監督もやるなど、表現領域も拡大し、写真という枠を飛び越え、この先の活躍が大いに期待できる作家である。
原色の持つ特性を思う存分に生かし、開放的でダイレクトに伝わる感性は、とても共感できるし、多くの人に支持されることも納得できる。
展示作品の中でも、最後のIのブースは、著名人のポートレイトで埋め尽くされ、今回の展示の中でも印象的な作品群である。縦横に埋め尽くされたポートレイトは、誰もが知っているタレントが並び、それぞれの個性的な人物とユニークな背景が一体となり、フィクションの世界が成立している。
蜷川は、こうした代表的な原色の世界を際立たせる作品以外にも、今回、リアルな写真表現も見せてくれた。そこには光が交錯する生と死の関係を捉え、モノクロームの心象風景を表現しているようだ。彼女の写真の個性は、濃い色彩の中に生命力を感じさせるところにあると思う。作品のモチーフの代表的なものに「花」があるが、植物とその美しい色彩が持つ生命力に彼女は魅せられ続けているのだ。それは桜のようにわずかな時間の美の物語を感じるものもあれば、カラフルな花びらの強烈に迫ってくるものもある。また「金魚」シリーズにも見られるオレンジやレッドのエネルギッシュな表現も、生命の鼓動を表現している。
最近、知人から聞いた話だが、この蜷川実花の回顧展は、記録的な入場者数で、会場の最多入場者数を大きく塗り替えたそうである。若い世代がかなり駆けつけたと思うが、幅広い世代の共感があったからだろう。彼女の表現は、これからも無限の可能性を予感させるが、作品の持つ勢いや、新鮮さは時間が経っても魅力は薄れない。現実を撮っても、シャッターを押した瞬間の世界は、もうフィクションであり物語の世界だと思う。現実を肉眼で視るのが現実。その間に介在するものがあれば、そこにはフィクションしか存在しない。写真でしか表現できないものを求めて、彼女の表現は、現実のあらゆるものにそのアンテナは張り巡らされる。
新世紀の作家、蜷川実花。この回顧展は現在までの活動の大きな区切りでもあると思う。彼女の視点はこの先どこへ向かうのか。傑作を生む作家には、いつも次作に対する大きな期待があるものだが、彼女もその一人。
私は、彼女の表現する色彩がどのような変貌を遂げていくのか。そのことに最も関心がある。オペラシティのギャラリー空間を埋めつくした450点以上の作品に囲まれる居心地良さは、体験した今、さらにその思いは高まっていく。