小倉正志コラム 「画人日記」 2006
絵画家 / 小倉正志「画人日記」 (第65回-72回)


2006年 画人日記(第72回)   「 舞踏家 大野一雄写真展「秘する肉体」

場所 / 東京 コニカミノルタプラザ ギャラリーB&C
日時 / 2006年10月14日(土)〜10月23日(月)
     開館 : 午前10時30分〜午後7時(無休)
主催 / 大野一雄展実行委員会

  100年を生きる。これは現代では不可能なことではない。100を過ぎても元気な人は多く存在する。大野一雄氏は今年10月で100歳。ここ数年は、舞台から遠ざかっている。私も京都の大学で2002年に公演を見たのが最後だ。
  舞踏というパフォーマンスは知っていたが、身近に舞踏を志す人物に知人もなかったし、積極的に見たいとも思わなかった。ところが、12年前、大野一雄舞踏研究所の知人と出会い、そのご縁で、95年か96年に横浜のテアトルフォンテで大野一雄氏の生の舞台を体験した。公演タイトルは「私のお母さん」。小スペースの会場で見た公演は、強烈なインパクトというよりも、自分にとっては、心地よい空間を自由に動く舞踏家の存在が印象的であった。
  今回の写真展は大野一雄氏を被写体として撮った47人の写真家の作品が集結した場である。
  撮影場所も、稽古場、公演の模様、楽屋風景など様々。舞踏家大野一雄氏の舞踏家としての時間と、プライベートな時間の断片を見ることになる。老体のシルエットにも美しさがあり、それは長い間、表現活動で鍛えられたものであることは間違いない。その魅力的な足首や手の表情にこの舞踏家の存在証明がある。
  一瞬一瞬が過去であり現在であり未来でもある舞踏は、心と身体の一体感を生み出せるかが肝要である 。



同じコンディションでは二度と出来ないから、見るものにとって、公演はすべてがオリジナル作品なのであるのかも知れない。会場で上映されていた最近の大野氏のインタビュー風景を見ていると、氏の思いは90歳を過ぎても常に理想をめざし、また謙虚な姿勢を大切にしていることが伺えた。宇宙という空間の中の魂という存在。大野一雄の舞踏の核にあるテーマは、おそらく生命というものを如何にして、表現するか。そのプロセスがこれまでの舞踏公演で進化し、自らの内に向かって、また目の前にいる観客や、その場所に存在しない人間、自然、宇宙に向かって舞踏が解き放たれているのだと個人的に推測する。
 写真で、10日間で1万人もの来場者を集めた今回の展覧会。
  メディアの影響力もあっただろうが、舞踏家大野一雄氏の内に存在するパワーに、強い関心を抱いた人たちが訪れたのだろう。
  大野一雄の舞踏は、暗黒舞踏の代表的舞踏家土方巽の存在が大きい。土方とのコラボレ−ションが氏の舞踏の方向性を確かにし、またその出会いが70歳を過ぎた晩年の素晴らしい公演の岐路でもあったのだ。
  舞踏というパフォーマンスによって表現される、魂の喜びや悲しみは、ヨーロッパやアメリカでも熱烈なファンが存在し、芸術としても高く評価されており、今回の写真展の後、イタリアでもイベントが予定されている。
  日本でも、今回の写真展を皮切りに、要望の声があれば、地方での写真展の開催も予定されている。この機会を逃した人も、実現すればぜひ各地での会場で大野一雄写真展を訪れてみてほしい。









2006年 画人日記(第71回)   「 ダリ回顧展 」

場所 / 東京 上野の森美術館
日時 / 2006年9月23日(土)〜2007年1月4日(木)
     開館 : 午前10時〜午後6時(入館は閉館の30分前まで。)
     閉館 : (会期中無休)
主催 / フジテレビジョン、朝日新聞社、
ガラ=サルバドール・ダリ財団、サルバドール・ダリ美術館

  ダリの待望の回顧展。いろいろと考えたあげく、開館30分前に到着することに。しかしもうすでに数十人の観客が列を成している状態。規定の開館時間より少し早く入場。
  自分が期待しているアーティストの回顧展で、まず関心があるのが、初期の作品である。
そのアーティストの個性溢れる作風にたどり着くまでのプロセスがどのような流れであり、どんなモチーフを対象としていたのか。大いに興味が注がれる。
  ダリも人物や風景など、他の作家と同様のモチーフが並び、思想的なインパクトはまだ感じることはできない。ダリは17歳で母親を亡くし、その後父親との確執が起こり、それは彼の表現に大きく影響を与え、実際父をテーマにした作品も展示されている。
  ダリは、シュールレアリスムの作家の代表選手であることは一般の美術ファンにも知られているが、訳の分からない不思議で難解な反面、作品からユーモアも感じることが出来る。彼のテーマはかなり普遍性のあるもので、作品の横に解説があり、見てみると家族や社会に描く具体的な描くテーマがあることが理解できた。
  すでに他界した日本の評論家、詩人で著名な、瀧口修造の言葉によると、「ダリは彼以外の作家が踏み込むことがなかった無意識の領域を描いている」、大まかにこのようなこと言っている文献が会場で紹介されていた 。



  ダリの不思議な世界を解明しようと、まるでミステリー小説のトリックでもあるかのように、観客はゆっくり、ゆっくり前へ進むので、時々数点は簡単に見ながら先へ急ぐ。
  原画を見て率直に感じたことは、画面の構成の緻密さ。前景の作品のテーマである物体のインパクトの強さ。そしてこれに反して、作品全体の雰囲気を形成する背景の自然風景。
  ダリは時間と空間の常識を画面の中で無視し、自身の無意識の世界観を表現することを実現した作家であり、20世紀前半の科学技術の進歩と共に、彼の芸術作品は評価されるべきである。それまでの絵画の歴史を破壊したかのような表現は、理解しがたいが、20世紀初頭は、人類がそれまでの生活から大きな発展を遂げ、すべてが機械化され、農業から工業へ産業の中心が変わったターニングポイントでもある。
  ダリの作品は、21世紀に入った人類にとって、過去の作品ではなく、同時代性のある作品として、現在の位置から見ることが大切だ。
  アートは文化として、人間の生活を豊かにするのであるが、また反面科学的な表現を兼ね備えているのである。人間の内面の思想的なものをダリほど奇抜に大胆に展開できたことは、表現者として幸福であったと思う。
  アインシュタインの物理学にも影響された彼は、現代の科学は、古代の錬金術や神秘主義にも通じるところがあると認識したダリは、二つの統合を試みた「原子核神秘主義」などを考え出した。
  というわけで、会場に1時間以上もいましたが、じっくり見られなかった印象があります。ぜひ皆さんも鑑賞時間は余裕をもって望まれるといいでしょう 。







2006年 画人日記(第70回)   「 近藤浩一路の全貌展 」

場所 / 東京 練馬区立美術館
日時 / 2006年9月10日(日)〜10月15日(日)
     開館 : 午前10時〜午後6時
(入館は閉館の30分前まで。10月9日は開館、翌日休館)
     閉館 : 毎週月曜日
(ただし、10月9日(祝・月)は開館、翌日閉館)
主催 / 練馬区立美術館、読売新聞東京本社、美術館連絡協議会

  JR池袋駅から西武池袋線で20分ほどの所にある練馬区立美術館。ここで水墨画の作品では高い完成度のある作家、近藤浩一路の回顧展が開かれている。
  近藤の作品は、日本独自の水墨画に洋画的な光の手法を導入、それが作品全体に奥行きと作品に独特の深い印象を与えている。
  あの芥川龍之介に「少し肉の臭いのする」水墨画と評されている。
  会場は初期の油彩や漫画作品から晩年までの水墨画を網羅、また途中に、この作家と同時期の他の作家の作品も展示されており、近藤浩一路と同時代の美術の動きを知ることが出来る。
  東京美術学校(現在の東京大学の前身)の同期には、藤田嗣治や岡本太郎の父一平らがいた。一平と浩一路は卒業後、漫画や挿絵の仕事を行い、夏目漱石の小説『坊ちゃん』『吾輩は猫である』を漫画にしたことでも知られる。漫画のモノクロームの仕事を通して、近藤は水墨画の世界に魅了されてゆく。初期の作品にはまだ水墨画の世界を予感させることは出来ないが、数多くの仕事の中で、自らに描くことの欲望が湧いてきたに違いない 。



  その後、日本画研究団体「珊瑚会」に参加、独特の作風は、横山大観にも認められ、日本美術院の水墨画家として再出発することになった。藤田嗣治を頼ってパリへと旅立ち、海外での体験が、この作家にその後の画風に最も影響を与えた出来事であった。
  会場の中盤からは、当時の日本の日常風景や自然をテーマとした作品が並び、どれも美しい光の表現とセンスが感じられる作品である。今の言葉で言うなら、「癒し」を感じる作品とも言えるだろう。モノクロームの写真が忠実な事実を写し出すものとしたなら、近藤浩一路の絵画は、写真特有の表現では写し出せない、その場の雰囲気や光の柔軟性が感じられる。
  20世紀の初期の時代は、まだまだ日本も政治、社会、文化に閉塞感があり、一部の人間しか世界の状況を体験することが出来なかったし、そうした中で新しい世界を知り、近藤は、素晴らしい体験をした。
  映画の世界も、今では、デジタルが主流であるが、20世紀初頭は、まだまだ映画もスタート地点を過ぎた頃であった。日本では戦前から戦後の数十年がモノクロ映画の優れた作品が生み出されたが、溝口健二、小津安次郎、黒澤明などの代表的な作家は、白と黒の単調な色彩の世界を、光と影の表現の巧みな演出方法によって、画面を効果的に展開した。
  近藤浩一路の絵画の世界は、単なる水墨画ではなく、進化する水墨画、絵画の世界が存在する。古くてもその時々の時代で新しい表現を生み出した作品は、時間が経過してまた再評価されることはよくあることだ。
  視線を常に新鮮にしていれば、アートは面白みが増してくる。常識や固定観念を振り払って見なければならないのは、時代はいつも動いているからなのだろうと思う 。






2006年 画人日記(第69回)   「 矢内原伊作とともに」

場所 / 兵庫県立美術館
日時 / 2006年8月8日(火)〜2006年10月1日(日)
     開館 : 午前10時〜午後6時
(金・土は午後8時まで。入館は閉館の30分前まで)
     閉館 : 毎週月曜日
(ただし、9月18日(祝・月)は開館、翌19日(火)休館)
主催 / 兵庫県立美術館、産経新聞社、神戸新聞社
アルベルト&アネット・ジャコメッティ財団、パリ

  ジャコメッティの作品を回顧展として、多数を目にするのは、今回がはじめての体験。そんなこともあって大変楽しみにして
いた。展覧会を見た感想は、予想以上に良かった。自分のジャコメッティの作品に対する考え方が変わった。正しく言うと、今まではこの作家の本質を知らなかったということだ。
  会場は大きく区別すると、彫刻とドローイング、油彩の3つに分けられる。初期の油彩画にジャコメッティの創造する作品の基本的な部分が感じられた。それは、人間という一個の立体物としての存在を作家が
どのように意識しているかということである。大筋として、ジャコメッティは科学的な合理性を基本としながらも、その存在する人間のシンプルな内面を視覚的に表現しようとしているのではないだろうか。
  ジャコメッティは複雑な構図や色彩感覚を持たないところに、作家としての強いオリジナリティがある。彫刻作品に見られるあの顔のぺたっとした立体感、まるで一本の杉の木が立っているようなイメージさえ浮かぶ 。



  作品から感じることだが、ドローイング作品の完成度の高さである。長い間一つの作品を前にしていても、作品に深みがあり、飽させない魅力がある。それは顔面を「線」の絡み合いによる密度の濃さと、他の身体を取り巻く「線」による表現の絶妙のバランス感覚が際立っているからである。無数の「線」が無意識に放たれているようで、要所は細部までコントロールされている。おそらく人物を描くものにとって、ジャコメッティの「線」による描写は、理想的であると思うのだ。「線」の描写は作家の表現に対する方向性や個性を表す本質的な表現であるから、「線」を描くことはそれだけ奥の深いものなのである。
  日本の古い木造、青銅などで形成された彫刻作品、ここでは例として神社、寺院に存在する仏像を挙げたい。こうした彫刻作品は、信仰のシンボルとして制作され、救いを求め、礼拝する人間を念頭においている。であるから、作品から感じるのは、外に向けて放たれるエネルギーである。それに対して、ジャコメッテイは、仏像のような外観を装いながら、日常では隠れているその人間性を表現するために、余分なものを削ぎ落とした結果としてのスリムな人体が完成するのである。
  ジャコメッティ芸術のモデルは、自分の身近な人物を選び、その人物の作品を様々な視点から描いている。会場にも多数展示されている、妻のアネット、日本人哲学者の矢内原伊作が代表的である。芸術は、作品を通して一人の作家が「人間」という生き物を見つめ続けるプロセスであるとも言えるのだ。ジャコメッティの作品は、鑑賞する人間の精神を高めてくれる。画集や本ではなくこの機会にぜひ美術館で体験してほしと思い
ます 。






2006年 画人日記(第68回)   「 人間は自由なんだから -ゲント現代美術コレクションより- 」

場所 / 金沢21世紀美術館
日時 / 2006年4月29日(土・祝)〜2006年8月31日(木)
     開場時間 : 午前10時〜午後6時(金・土は午後8時まで)
     閉場時間 : 毎週月曜日(ただし、7月17日は開場)、7月18日(火)
主催 / 金沢21世紀美術館、ケント現代美術館

  古都金沢に完成した、現代アートを展示する美術館として注目を集めている金沢21世紀美術館で開催中の展覧会。
  今回は金沢と姉妹都市のベルギーのゲント市との提携35周年を記念して、ゲント現代美術館のコレクションから、11作家、約70点の作品が展示されている。
  以前から注目していたこの美術館を今回はじめて訪れることができた。円形の美術館の中にいくつかの展示ルームがあり、場所も金沢の中心部と、アクセスもかなり良い。おかげで、年間の入場者に占める県外からの人の率も高く、すでに新しい観光ルートとして定着している。
  この企画展は現代アートの正道と言うべきもので、質の高い作品群が並び、ヨゼフ・ボイスをはじめ、代表的な現代アートの作家の作品を見ることができる。
展示ルームすべてを見て思うことは、人間の生活そのものと、そこにある普遍的なテーマである。日常生活とは時間とともに過ぎ去り、ほとんどの人間がスケジュールをこなしながら、また新たな1日を過ごす。この時間の経過の中では、根源的な生きる意味を自らに問うことは皆無と言ってもいいい 。



  現代アートの作家は、ある意味で第3の眼を持ち、人間の行為そのものを見つめる鋭い視線を磨いている。そして、人間と社会との関係の中で、その行為がどのようなものなのか。これこそが現代アートの表現のテーマと言ってもいいであろう。
  インスタレーション作品が半数以上を占めるが、特に印象に残ったのは、パナマレンコの三角飛行機Pー1やこがね虫などの巨大な立体物。ブルースナウマンによる、2台のモニターの人物の映像作品。アルトゥール・パリオの部屋中にコーヒー豆を敷き詰めた作品などがある。
  我々はこうした現代アートの作品に触れることは、すでに様々な美術館やギャラリースペースで体験済みだが、今回は、現代アートの意義の再認識と未来への期待を感じさせる展覧会となっている。まさに現代社会に存在する人間の在り方を問う、そのメッセージが11作家の表現で対峙する者に迫ってくる。
  どうせなら、休日に一人で会場を時間をかけて見ることをおすすめする。慌ただしい中で日頃現代アートの作品に親しむことが出来ていないなら、少し遠出をして、金沢で現代アートの神髄に触れてみるのも、面白い試みだと思います 。





2006年  画人日記(第67回)   「 フンデルトヴァッサー展 」

場所 / 京都国立近代美術館
日時 / 2006年4月11日(火)〜2006年5月21日(日)
開館時間 : 午前9時30分〜午後5時
(金曜は午後8時まで・入館は閉館の30分前まで※月曜休館)
主催/京都国立近代美術館

  フンデルトヴァッサーは、日本でも親しまれている作家の一人である。以前テレビの 特集番組で、元米米クラブの石井竜也が彼のアトリエを訪れ、彼の作品について紹介していた。 確か自宅にまだ録画したビデオが残っているはずである。
  今回京都の美術館では、彼のアートの全貌が見れる展示内容となっており、ファンならぜひ 見ておくべきである。初期から晩年までの作品が並び、それにあの建築物の模型の立体作品が 展示されており、興味が高まる。予想に反して会場は混雑も無く、リラックスしながら見るこ とができた。
  何と言っても、フンデルトヴァッサーはあの色彩がまず印象的で、彎曲した線や形の 大胆な構成がユニークで、童心にも通じる遊び心を感じることができる。今回はそうした印象 をさらに納得させるものであったが、それ以上に、彼の作品には自然や現代社会へのメッセー ジがあることを深く知ることになった。彼は、芸術家であると同時に、環境保護活動家の一面 もあるのだ。それはあの建築物の作品にも表現されており、自然と現代建築との融合、お互い が共生していくことの大切さを常に作品で表現した。 。 



  今の言葉で言うなら、エコロジストとしてのフンデルトヴァッサーを土台にしながらアーテ ィストとしてのフンデルトヴァッサーが存在するということになるのだ。地球の自然保護 活動も、1958年、1968年にドイツ、オーストリア、ウィーンなどで講演会を行い、ヨーロッ パ近代の合理主義に対する批判を唱えた。
  会場の後半には、日本の大阪の湾岸地帯に実際に建造された、彼の作品の模型と現地の写真 が展示され、殺風景な場所にユニークな存在感を放っている。会場を順を追って見ていくと、 版画作品には、素材や構図の面白さが、作品として高いレベルで完成しており、どれもが魅力 的で色彩感覚も素晴らしかった。作風は違うが、日本ではデザイナーの福田繁雄のユーモラス な中にも、現代社会への批判精神溢れる作風が、この作家と通じるものがあると思った。
  子ども心をくすぐる作風の中に、鋭いメッセージを込めるフンデルトヴァッサーの作品を 見て、観覧者はこの世界が今共有している問題について、どう思ったのだろうか。アートがも し理想的な展開とするなら、受け手が作品から作者のメッセージを知り、自らの方法でまたそ のメッセージを社会に向けて伝えることかも知れない。フンデルトヴァッサーが我々に対し て望んでいたかどうかは定かではないが、音楽から一つのムーブメントが起こるように、 アートから、世界のどこかで新しい運動が起きているかも知れない。
  フンデルトヴァッサーのユニークで素晴らしい作品から、今を生きる我々に、大切な ものを教えてくれたことも書き加えておきたいのだ。



2006年  画人日記(第66回)   「 藤田嗣治展 」

場所 / 東京国立近代美術館
日時 / 2006年3月28日(火)〜2006年5月21日(日)
開館時間 : 開館時間 : 午前10時〜午後5時
(金曜は午後8時まで・入館は閉館の30分前まで ※月曜休館)
主催/東京国立近代美術館 / NHK
NHKプロモーション / 日本経済新聞社

  日本で開催された藤田嗣治の展覧会としては、はじめてと言ってもいいほどの大規模 展覧会が東京の国立近代美術館で開催された。乳白色の肌の女性などで日本の多くの美術ファ ンにも知られている。以前から期待されていただけに、マスコミの宣伝効果もあって、自分が 開場の20分前に到着した頃には、すでに多くの観覧者で賑わっていた。開場も予定より早く 行われ、観覧者がぞろぞろと中へ入っていった。
  日本の近代美術の中でも、国吉康雄と同様に、海外での評価が高かった作家である。展示内 容もオーソドックスに、年代順に展示され、彼の戦前の学生時代からの画歴が見られる。あの 藤田の画風が確立するまで、どういった過程をたどったのか、興味があった。決して豊かでは なかった初期の頃は、自分の作品の創造にひたすら没頭していた時期でもあったことは、彼の 残したエッセイを読めばよくわかる。
  結婚まもなく、西洋への憧れから渡欧を決意、日本での雑多な出来事から解放され、ヨーロ ッパでの生活は、絵画に集中するにはよかったが、反面経済的には最低の生活水準であった。 あのおかっぱのヘアスタイルもファッションというよりも、自分で髪を切るという、節約の意 味もあった 。



  藤田は、ヨーロッパでモディリアニ、ピカソら多くの画家と出会い、その影響も多分に受け た。やがて自分の画風を確立する「乳白色」の色彩と、「猫」というモチーフを得た。あの独 特の白に、ヨーロッパの美術ファンから関心が集まり、藤田嗣治の名はフランスの美術界に 広まっていった。展覧会場の中でも、お目当てのこの乳白色の女性像と猫が描かれた作 品の前には、多くの人が群がり見ていた。
  やがて藤田は、中南米や沖縄、再び日本へと帰国し、その間に描いた作品は現地の風俗が反 映し、色彩や作風にも新たが展開を見えてきた。しかし、戦時中順調に行きかけていた制作活 動に大きな転機が訪れる。そして描かれたのは、戦争画を描写するという行為であった。会場 には大画面に描かれた、戦争の悲惨さを強烈に訴える作品が壁面を覆おう。会場を流れていた 魅力ある作品が、突然異様な展開へと突入した。戦争画もある部屋は照明も暗く、「アッツ島 玉砕」という作品では、戦闘シーンの中に登場する敵、味方の人間の表情がリアルに迫り、戦 争の恐怖感が迫ってくる。
  戦後、藤田は再びフランスへと戻り、帰化し二度と日本の土を踏む事はなく、以前のように 精力的に制作に励んだ。代表的な乳白色の女性に加え、動物達が食事をするユーモラスな作品 や、以前にもあったが、宗教画が制作のの中心にもなった。晩年の代表作品としては、子供好 きの藤田が、自分の中だけの架空の存在という、人形のような可愛いい子供がテーマの作品を 多数描いた。現在まで幾多の伝説でイメージが形成された藤田嗣治。この作家の画家としての 作品はもちろん、その人生そのものに発見のある回顧展である。
  この機会を見逃すことなく、ぜひ会場に出向いてほしいと思う 。




2006年 画人日記 (第65回)   「 武満徹-Visions Time展 」

場所 / オペラシティ・アートギャラリー
日時 / 2006年4月9日(日)〜2006年6月18日(日)
開館時間 : 午前11時〜午後7時
(金・土は午後8時・入館は閉館の30分前まで ※月曜休館)
主催/財団法人東京オペラシティ文化財団
NHKプロモーション(「武満徹ーVision in Time」展)

  武満徹の没後10周を記念して、東京のオペラシ ティでは、武満の音楽に関連する集大成的な企画展 が開催された。現代音楽の第一人者としての功績を讃え るメモリアルなものとなった。
  彼の音楽には、現代音楽やクラシックのファン以外に も多くのファンがおり、特に映像音楽では、一般の人た ちにも親しまれている。世界的な音楽家武満徹は、生前 音楽以外のジャンルの友人との親交も深く、今回の展覧 会でも、そうした彼の表現者としての全貌が明らかにな るように、現代アートの作品にも世界的な作家の名前が 並ぶ。ミロやルドン、イサム・ノグチなどこうした巨匠 たちの作品からも武満徹の偉大さを知ることができる充 実した内容になっている。
  展示会場に並ぶ戦後の現代アートの作品の数々から、 この展覧会が、武満徹を中心とした、戦後の世界的な芸 術家の活動の断片を見ることも可能で、会期中も彼の作 曲した音楽が使われた映画や映像作品が特集として上映 されている。その中で自分は、市川崑監督の京都をテー マにしたものと、日本の庭園について制作された映像作品を見た。これらの作品の中で、何人かの著名なクリエイ ターが日本の庭園の美について語っているのだが、日本 総合芸術としての世界が「庭園」にあることを感じた。
  流れる音楽も、最低限必要な音のみで構築されたよう に思う。武満徹の音楽の素晴らしさには、日本固有の美的感覚が息づいていることは、これら の映像作品で知ることができた 。



  彼が目指していた芸術の方向性は、もちろん日本というテリトリーで完結するもではなく、 もっと視野の広大なものであった。人間の心の奥深くまで伝わるような音の存在感を常にも模 索していたのではないか。個性は違うにせよ、そうした部分でコミュニケーションが可能な友 人たちが、今回展示されているミロやルドン、また同時代を生きた日本の作家たちであったの だ。武満徹とのコラボレーションや、彼の音楽からのイマジネーションによって生み出された 作品も会場では見ることができる。戦後の最も活発な時代の芸術は個人の作品のみで完結せず、 それぞれの表現者全体で常に進化していたことも知ることができた。共同体としての機能が有 効であった時代の証しでもある。
  20世紀の大戦が終り、世界が新しい秩序を求める中で、人間とは、社会とは、命とは、こ うした問いかけが、哲学や政治、文学の場でも盛んに論議されていた。そして芸術の場でも、 現代アートの重要なコンセプトでもあったし、現に今もそうである。
  21世紀の今、こうして20世紀の作品を見ると、大切なものが何であり、それは完結する コンセプトではなくて、継続していくものであることが分かる。その未来が明るいものか、暗 いものかは分からない。武満徹が生きていたなら、オペラシティのあるべきす姿をどう示し、 イベントやギャラリーでの企画がどのようなものになったのか、興味が尽きない。
  黒澤明監督の映画「乱」の音楽を担当した武満徹は、監督の求めていた音楽について構想を 練るために、富士山付近のロケ現場にまで行き、あの印象的な音楽を生み出した。ここ数年も 武満徹の音楽に関する新しい企画のCDや本が出版されている。普遍的な美の完成があるから こそ、あらゆるいろんなジャンルとのコラボレーションも可能なのである。21世紀を超えて、 彼とその仲間たちが生み出した芸術作品は、世界で愛され続けるであろう。
  この企画展を今年のベストワンの一つに入れたいと思う 。