小倉正志コラム 「画人日記」 2008
絵画家 / 小倉正志「画人日記」 (第83回-89回)


2008年 画人日記(第89回)   「 トレース・エレメンツー日豪の写真メディアにおける精神と記憶展 」

場所/東京オペラシティアートギャラリー
日時/2008/7/19(土)〜2008/10/13(月・祝)
主催/財団法人東京オペラシティ文化財団

 6月に大阪の国立国際美術館で開催された映像アートの展覧会と内容的には共有できそうである。たまたま東京に滞在していて、東京ではこの場所で行なわれる企画展は大変質の高いものがある。
  今回は日本とオーストラリアの写品表現を中心にした企画展の開催となった。出品作家には、前衛舞台表現で世界的に有名な、今は亡き元リーダーの古橋悌二の作品も見られる。予想していた通りの見応えのあるものになった。
  しかし、本当に世界は短くなったと思う。距離的なこともそうだが、理由としては、20世紀とは一変し、アメリカや日本の先進国とインドや中国のめまぐるしい経済の発展に代表されるように、世界全体の勢力図に変化が生まれたのだ。このことは人間の行動や意識にも影響を及ぼし、いい意味でコミュニケーションは深まったのではないだろうか。記憶や時間の歴史を止めておくメディアとして写真は存在してきたが、写真表現もデジタル化し、小さなメモリカードの中に無数の映像が保存され、それが現代社会の共通認識となった。
  東京オペラシティアートギャラリーには、写真表現の最先端の作品を展示、アーティストの強いメッセージが作品に表現され、見る側の解答を求めているかのようである。



  フィリップ・ブロフィはミュージックビデオから歌手の音声を抜き、録音で吹き替えられた音響映像インスタレーションを発表。マスメディアに公表されている「映像的な真実性」を捉えたものである。志賀理江子は、今年「第33回木村伊兵衛写真賞」を受賞した若手のホープ。2冊の受賞作である作品集より、『Lily』からの構成。過去と未来を新しい感性で表現。写真の特性としての時間の幅を感じさせる作品である。
  実際の写真が存在しないと、理解する事は無理だが、写真メディアの今後の方向性を予感させる展示となった。作品をしっかりと見るなら、最低1時間の鑑賞時間は用意しておく方がいいだろう。
  写真表現は、現実の時間そのものを定着させる記録的なものとして認識されていたが、そのことはもはや過去のことであり、現代は、写真表現にはクリエイティブな時間を生み出すものとして存在意義があるのではないだろうか。
  自分もよく考えることとして、絵画と写真のクロスオーバーしているアートはよく見るし、音楽のジャンルでもあるように、ロックであるとか、ジャズであるとか、クラシックであるとか、そんな区別ではなく、密度のある作品は、あらゆる要素を満たすものであると思う。
  今回の展示で、元ダムタイプのリーダー、古橋悌二の作品<LOVERSー永遠の恋人たち>は彼の初のソロ・ワーク。「愛は情報に還元できるか?」「アートは有効な表現手段か?」と、今回の他とも共有するテーマを感じさせている。現代情報化社会の中における芸術と愛の可能性を、メッセージとして放っている。
  かなり硬派で知性的な展覧会。写真メディアの動向を知る上で、最適な企画展であった 。





2008年 画人日記(第88回)   「 舟越桂 夏の邸宅展 」

場所/東京都庭園美術館
日時/2008/7/19(土)〜2008/9/23(火・祝)
主催/財団法人東京都歴史文化財団 東京都庭園美術館

  今から5年ほど前に、舟越桂の大規模な回顧展が、東京都現代美術館をはじめ国内数カ所で巡回展となった。自分もこの展覧会を事前から注目し、会場で多数の立体作品を見たときの印象は記憶に残っている。
  現代アートシーンの中で、立体作品を創造する作家として舟越桂は世界を代表する作家の一人である。彼の作品に魅了される人は、一度作品と対峙したなら、その奥深さ、品格に驚嘆することだろう。本の装丁にも使用され、TVドラマ化もされた天童荒太の著書「永遠の仔」(幻冬舎刊)の装丁は強いインパクトを放ち、読者に作品に対する好奇心を高めた。
  今年7月からスタートした展覧会。東京都庭園美術館の空間を背景に、舟越桂の立体作品をより際立つ雰囲気で演出することに成功している。
  東京都庭園美術館は、美術館となる前は、皇室関係者の住居として使用されていたことから、室内もアールデコ調で彩られ、この空間で見せることは、見事なアイデアであると思った。この空間にしか似合わない作品があるのだ。空間が作品を拒絶するというか、本当の意味で作品に気品がなければ、この空間とは不協和音を生み出し、作品も空間も生きてはこない。まさに美としての存在価値が問われた。



  東京都現代美術館では立体作品が多数展示されていたが、今回は立体作品の一つ一つを、庭園美術館の空間を効果的に使いながら見事に表現している。また作家蔵のドローイング作品が公開されていることが初の試みであり、ファンにとってはうれしい限りである。
  自分が会場へ行ったのが、まさに7月下旬の真夏日の昼間の平日だったこともあり、館内は人も多くはなく、じっくりと作品を楽しむことが出来た。人気のある展覧会はやはり平日の日に行くことをおすすめする。
  年代ごとに舟越桂の作品を見ていくと、彼の人間に対する探求心がより内面の世界へと傾注しているように思う。表面的な人間の表情ではない、人間の内面の心理を表現することに、作家としての方向性をより確かなものにしていることが見えてくる。我々が、舟越桂の作品と対峙して、いつもその場に立ち止まることに居心地の良さを覚える。それは癒されるからだろう。きっと都会人は日常の様々な人間関係のもつれや、疲れを慢性的に抱えながら生きているから、そうしたことをなるべく人目には隠しながら生きているから、彼の作品と対峙したとき、心が安らぐのである。
  ここ数年は、従来の立体像を基本にしながらも、スフインクスや異様な表情をした作品が登場し明らかに作家の心境の変化の様子が、具体的に作品となって表現されてきた証明である。これからも人間への興味は尽きることはなく、立体作品を中心に、版画やドローイングに、作家舟越桂の創造の旅は続くのである。
  これから先も、彼の作品から目を離すことは出来ない。そして意外な展開へと進むこともファンとしては、期待したいのだ。最後に、図録は小型ですが、なかなか面白いものになってますよ。
  東京都庭園美術館×舟越桂。見事なコラボレーションでした。




2008年 画人日記(第87回)   「 ルノワール+ルノワール展 」

場所/京都国立近代美術館
日時/2008/5/20(火)〜2008/7/21(月・祝)
主催/国立国際美術館、朝日新聞社・朝日放送

  オルセー美術館総合監修による企画展。東京渋谷の展示を終え、京都国立近代美術館での開催となった。この展覧会は、画家ピエール=オーギュスト・ルノワ−ルと次男の映画監督ジャン・ルノワールの二人をテーマとしたユニークなものである。
  両巨匠に通じるのは、美の共有による絆のように思う。この二人は19世紀から20世紀の時間の中で活躍し、人々を魅了する作品を残した。
  会場には、画家ルノワールの作品が並ぶ中、関連するような設定で、映画監督ルノワールの映像が流れる。ルノワールの絵も、傑作が揃い、期待を裏切らない内容になっている。



  一般的に、日本では人気の高い画家の一人であるルノワールの作品を数多く目にするのは、今回が初めてである。印象派は光の扱いに際立った表現を生み出し、豊かな色彩感覚と同時に、それまでの絵画に対する距離感を、より身近なものにしたと思う。
  元々は、映画監督になる前、次男のルノワールは父の絵画制作のために、モデルになり、制作活動にも加わったことがある。
  こうした経歴が、映像作家としての起点となり、やがて20世紀初頭からの映像技術のはじまりと共に映画監督としての道を歩むことになる。
  一方、父ルノワールの作品は、原画を見てより肖像画の出来の素晴らしさを感じた。構図とか色彩はもちろんだが、顔の表情にルノワールの愛情や情熱が強く 表現され、見ていると自然に視線が止まるほど魅惑的である。家族は常にルノワールのモデルになり、多数の傑作を残した。
  ルネサンス以降の絵画の歴史を辿ると、18世紀、19世紀の付近が大きな節目である。世界が近代の動乱の時期であったことと関係がある事は否定出来な い。印象派はある意味で、それまでの絵画を否定し、革新的な世界を切り開いたパイオニアでもあった。生活に潤いや豊かさを求めた同時代の民衆の表情や、街 の風景は、多くの印象派の作品に表われている。
  ルノワールの作品が、世界はもちろん日本人にこれほどまでに愛されているのには、どういった理由があるのだろうか。優しさや愛、そして家族に対する理想 の姿が表現されているからではないか。時代は変わっても、普遍性のあるものは、いつまでも評価され、人々の心に残る。ルノワールは身近な人々を描きなが ら、キャンパスの中に、普遍性のある美の追求を実践し続けたのである。
  また映画監督の次男ルノワールは、そうした父の美的DNAを引き継ぎ、映像の中に独自の美の世界を構築していったのである。
  父は、個対個の関係であるとするなら、息子ルノワールは、個対群集になる。映像メディアという当時の最新技術を使い、具体的にコミュニケーションが可能な、世界に向けたメッセージを持った。
  本来なら、映像作品はその作品をすべて鑑賞した上で評価しなければならないが、絵画との関係でダイジェスト的にしか見れないのは残念であるが、展覧会期 間中、プログラムを組み、選ばれた作品が上映されている。またミュージアムショップでもDVDが販売されている。
  絵画と映画。共にビジュアル表現として、21世紀はいよいよ「実験」という言葉を必要としない展開で見応えのある企画展がこれからも登場してくることに期待したい 。




2008年 画人日記(第86回)   「 液晶絵画 Still/Motion 」

場所/国立国際美術館
日時/2008/4/29(火・祝)〜2008/6/15(日)
主催/国立国際美術館、朝日新聞社・朝日放送

前回に続いて、大阪の国立国際美術館の企画展を紹介したいと思う。 映像をテーマとした発表はすでに見ている方も多数おられて珍しくもないが、今回の試みは、最新のデジタル画像とアーティストのコラボレーションとしてかな り完成度の高い内容であった。80年代には、パフォーマンスという言葉が流行し、以前自分も1985年に大阪の今は閉館してしまった、近鉄劇場でニュー ヨークのアーティスト、ロンリーアンダーソンのパフォーマンスをライブで見た。80年代初頭には、今も影響力を持つアーティストが次々と登場し、注目を浴びた。
  「液晶絵画」というタイトルの今回の展示も、現在世界で活躍するメンバーが集まり、作品に期待を抱いたのは私だけではなかろう。
  個人的には全体を鑑賞して、アジアのアーティストの二人、チウ・アンションとヤン・フードンの作品がインパクトとメッセージ性の強い作品であると感じた。チウ・アンションはアニ メーション作品で束芋の作風を連想させるように、現代社会と未来への警鐘が動物をモチーフとした展開に巧みに表現されており、この作品のブースには長時間 立ち止まり作品を見続けている人が多数おられた。 一方ヤン・フードンの作品は、中国の冬の荒れ果てた大地の中を彷徨する野犬の群れ、その様子を捉えた映像 から伝わってくるのは、現代の中国の貧富の格差であったり、生と死のリアルな世界である。



  他のアーティストも同様に素晴らしい作品が展示され、あえて自分の主観で挙げるとするなら、この二人の作品になる。
  今回の展示では、最新の映像技術を駆使したシステムが導入されたが、協力企業には、日本のシャープやエプソン、ボーズなどの企業が並び、その技術力を提 供している。まさに最高のアーティストとテクノロジーが融合した現代アートの企画展になった。これはテクノロジーの表現力とアーティストの感性が成熟した 段階で今後作品が生まれていくことの証明でもあり、今年の国内の展覧会の中でも重要なものの一つになることは確かであろう。
  私も、京都のソフトウェア開発のベンチャー企業と共同で仕事をした時期があるが、まさにスピードが要求される世界であり、最新の技術力も、それを上回る ものが登場すれば瞬時に過去のものとなる。アートとテクノロジーがこれからも手を結べば、人間の創造力はさらに進化するに違いない。
  写真や絵画の世界を超えた映像の領域には、まだアーティストが踏み入れていない未知の領域がある。こうした展覧会を見る側も、さらに面白いものを見たい と思うし、いい意味での相乗効果が生まれ、もう5年いや3年もすれば次世代の突出したアーティストが登場し、映像の世界に今までにはない新しい概念を見い 出しているかもしれない。
  この企画展のvol.2を期待したい。





2008年 画人日記(第85回)   「 アボリジニが生んだ天才画家 エミリー・ウングワレー展 」

場所/国立国際美術館
日時/2008/2/26(火)〜2008/4/13(日)
主催/国立国際美術館、読売新聞社

  久々に、強烈な個性を持ったアーティストに遭遇した。その人物はエミリー・ウングワレー。オーストラリア生まれの作家として、世界的な評価を得ている。
  日本での大規模な展覧会は今回が初めて。予想以上の感動があり、エネルギッシュで体温を感じる作品であることが、このオーストラリア生まれの作家の印象 だ。画面は、200号以上の大規模なものから小品まで展示され、一見、テキスタイルの模様のような感触を放ち、一般的には、特に女性に好感を持
たれるように思った。
  彼女はオーストラリアの先住民族の血を受け継ぎ、そのルーツは4〜5万年前にも及ぶ。遥か彼方からの時空を超えて、エミリ−・ウングワレーはアーティストとして才能を開花したのである。
  この作家は、生涯をオーストラリアの中で育ち、生き抜いた。だから現代アートの歴史や作家の知識は皆無で、そういう意味で作品は純粋な現代アートなのである。彼女の作品は「プリミティブア−ト」と呼ばれその形、色、感性は一人の人間のキャラクターを強く表 現してい る。線と無数の粒子の集合群が、変幻自在に躍動し、画面に生命力と存在感を与える。 



 国立国際会館の企画展示室がエミリー・ウングワレーワールドに染まり、実際に聞こえはしないが、彼女のアートには、サウンドがある。躍動する音が画面か ら沸き立っている。過去10年ほどの間に、エミリーの作品は世界の美術館に出品され、世界各地のコレクションに納められている。またベネチアビエンナーレ にも出品され、1998年にはオーストラリア国内の主要な美術館を巡回する大規模な個展が開催された。
  会場で見ている中で、こうした傑作を描き続けたエミリー・ウングワレーの創造する意欲の原点を知りたいと思った。日本でも、地方の文化として民族芸能は 存在し、消滅せず今も保存されているものも多い。当然ながら、家族があり、その民族の集合体がある。共有する精神性が存在するところには、文化が形成さ れ、またその人間の絆が、継承していくのだろうと思う。
  彼女の抽象表現は、情報と経済が中心の現代社会に、人間本来のナチュラルな感性と生命力を感じさせてくれるアートとして輝きを放っている。
  現代社会、特にこの日本は、何ものにも縛られず生きて行くこと、表現することは難しい。エミリー・ウングワレ−なら現代人にどんなメッセージをくれるだろうか。会場の中で想像してみた。
  膨大な作品を残しているから、また日本で彼女の作品と出会う日を楽しみにしたいと思う。そんな思いを抱きながら彼女の作品に会いたくて、私はこの展覧会を数週間後再び訪れた。



2008年 画人日記(第84回)   「 TOKYO曼陀羅 」

場所/東京写真美術館
日時/2007/10/27(土)〜2007/12/16(日)
主催/財団法人東京都歴史文化財団、東京都写真美術館、読売新聞東京本社、美術館連絡協議会

  戦後の日本を代表する写真家として、いまも影響を与え続けている東松照明。マンダラシリーズの展覧会をここ数年各地で開催、現在も第一線で活躍していることの証明である。
  マンダラシリーズは、「長崎マンダラ」(2000年)、「沖縄マンダラ」(2002年)、「京まんだら」(2003年)、{愛知曼陀羅」(2006年)と発表し、今回の東京写真美術館で開催された「TOKYO曼陀羅」へとつながる。
  展示会場のワンフロアには古いネガから選択したものや、インクジェット・プリントによるものなど、約300点で構成。日本の土着性を感じさせるものや、都市の裏側を捉えたものなど、東松照明の表現の被写体と多様性を見ることができる。
  昔から、森山大道、高梨豊、中平卓馬など、東松照明と並んで、同じように現代社会と対峙している作家がいる。それぞれの個性の強いオリジナリティのある写真表現は、常にインパクトを感じさせ、時代を挑発し、現在もメディアが再び、彼らの表現をテーマとして挙げ、脚光を浴びている。
  東松照明のシリーズ作品に「プラスチックス」「インターフェイス」がある。私は写真集ではなく、実際に見て、今回発表された作品の中では特に印象に残った写真である。現代社会の大量消費されるモノたち。それを被写体とした東松の意識には、生命力のある植物や動物への愛情を注ぐかのようにシャッターを切ったのではないだろうか。
  写真に込められたメッセージを見る側は自分なりに感じる。本当にいい写真とは、その写真を見た瞬間に、相手に考える瞬間を与えないでストレートにメッセージを伝えるものなのだ。視覚によるコミュニケーションのメリットはそこにあると思う。
  ところでここ数年、日本の高度経済成長期を振り返って、当時を懐かしんだり、学ぼうとすることをテーマにしたTV番組が多い。確かに当時の日本は、パワーがあり、活気に溢れ、前向きな社会状況があった。



  東松照明は、日常に表現のテーマを求め、日本という国を撮り続けたのである。都市、人間、自然。東松の意識が被写体を捉え、日本の日常を撮り続ける活動そのものが、変わりゆくこの国といつも一体となっているのである。
  マンダラシリーズは長崎、沖縄、京都、愛知と場所を移し、この東京で完結する。これは、いつも同時代を見つめる東松照明の活動の記録であり、メッセージである。
  私は、過去の出来事を教訓とするのはいいことだと思うが、現在を否定的に捉え、過去の時代にヒントを求めたり検証したりするばかりでは良くないと思う。
  時代はいつもその時代を生きる人間と共に存在するからである。ありのままの今の時代を生きながら、未来に向かってゆく力を育てることが大切なのではないだろうか。東松照明の写真表現を見ていると、とにかく今の自分に集中しようとする心が強くなるのだ 。




2008年 画人日記(第83回)  「 東郷青児 昭和のアトリエ展展 」

場所/損保ジャパン東郷青児美術館
日時/2007/12/1(土)〜2007/12/26(水)
主催/損保ジャパン東郷青児美術館

京都と東郷青児の関係は古くからあり、有名なのは、三条河原町に今もある京都朝日会館のビルの河原町通り側の壁面全体を使って制作された陶壁画がある。東郷の代表的な画風、女性像をテーマにした作品で、今はすでに取り除かれているが、当時の三条河原町のシンボリックな存在として広く知られている。
  戦前生まれの東郷青児は、二科展に入賞後、1921年、フランス留学。トリノに未来派のマリネッティを訪ね、未来派運動にも参加。帰国は留学中の成果を発表。第1回昭和洋画奨励賞を受賞するなど、精力的に活動を続け、戦後は二科会再建に挺身する。
  最近の若い人たちには、東郷青児の作品はあまり印象がないかもしれないが、戦後の日本の流行作家として大衆的に幅広く支持された。今回、展覧会場で原画を見て実感したのだが、あの甘美な表情の漂う女性像は魅力的で、男性、女性を問わず共に虜にされることは想像できる。
  東郷青児のように独自の抽象的作風と大衆性が共存し、そして支持される作家は国内でも希な存在である。「ロマンチック」という言葉が最も適しているのではないだろうか。二科会の代表として、東郷は会の発展と基礎を形成し、全国的規模の団体に成長させた功績は大きい。
  昨年、9月末に東京吉祥寺にある喫茶・洋菓子店「ボア」が閉店した。ボアの店内には、東郷青児の大作が飾られていたことは有名で、またテイクアウト用のパッケージや包装紙なども東郷のデザインによるものである。流行作家というものは、時代を代表するものであり、時が流れれば、人の記憶から忘れ去られることは珍しくない。しかし、東郷の作品は、それを超えて魅力を放ち、次世代の人たちにも共感を呼んでいる。



  その魅力とは何なのか。優美でロマンチックな画風は、洗練されたセンスと美意識で描かれ、一つ完成された理想の女性像を表現していると思うからである。東郷の代表でもある「望郷」は、横顔の女性を描いた作品だが、日本の古寺に見られる仏像の研ぎ澄まされた美しさとどこか共通するものを感じる。キュービズムやシュールレアリスムの作家と同時代に生きた東郷は、その影響と独自の美意識から優れたテクニックをもって多くの傑作を生みだしていったのである。
  損保ジャパン東郷青児美術館は、バブル期にはゴッホやセザンヌ、ゴーギャンの名作を購入し、ニュースにもなったが、普段は国内外を問わず、企画展を開催し、美術ファンに親しまれている美術館である。現在東郷青児のコレクションは200点に及ぶ。
  今回の展示では、京都朝日会館の陶壁画の制作風景の写真や、その他の制作の背景が分かる資料も数多く紹介されていた。戦後の一時代を築いた画家、東郷青児の作品と、作家としての内面を知る上で貴重な展覧会となった。
(美術館は、JR新宿駅西口から徒歩10分ほどです)