neutron Gallery - 高須 健市 展 『 S U R F A C E 』 -
2010/2/2 Tue - 14 Sun gallery neutron kyoto (最終日21:00迄)
高須 健市 (ミクストメディア / インスタレーション)

常に世の中に目を向け、時にユーモアを活かし、時にシニカルに、そして温かく見守りつつ、まさに現代美術の醍醐味とも言える批評性と革新性をもって驚きを与える作家、高須健市。

ニュートロン初登場となる待望の京都個展は、自信を持って取り組むシリーズから出展。街で拾い集めたゴミから生まれるハイブランドのロゴマークは、消費信仰と価値観の在り方に、強烈なメッセージと問いを投げかける。





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gallery neutron 代表 石橋圭吾

 2008年秋の世界経済の凋落から始まった不況やデフレの影響は、2009年のアート市場にも極めて大きな影を落とした。ようやく日本に根付いて来たかと思えた現代美術のコマーシャリズムもその先行きが見えぬ程の低迷を続け、まるで祭りの後の閑散とした広場を見渡すかのように、やはり美術を売り買いするという行為を現代生活に定着させることの難しさを、作り手やギャラリーは思い知らされる結果となった。しかし思えば、日本における現代美術のコマーシャリズムの潮流はその歴史も浅く、まさにアートバブルが膨らんだ過程においては欧米やアジアの市場との密接な関係があったことを、忘れてはならない。所詮、日本におけるアート市場の開拓は道半ばであり、むしろこの不況の時期にこそ、足元をしっかりと見つめて国内の優良な作家を、生まれ育った国できちんと評価させ、正当に売買されるように導く事が大切であることを思うのは、私だけではないだろう。

 それにしても特に東京では、猫も杓子も面白可笑しいペインティングさえ出していれば売れるという時代がちょっと前まで存在していたという事自体、今思えば信じられない状況であり、それが美術を取り巻く環境の本質を深く洞察することから遠ざけていたこともまた、事実である。そんな狂騒の時代に踊らされた作り手も数知れず、今やその多くは今後の行く末に不安の日々を過ごしてもいるだろう。だが一方では、美術が持って然るべき「時代への批評性」と、世の中に対する新しい視点の提案を、制作の根本とし続ける気概溢れる作家達も存在する。まさに今こそ彼らに脚光を集めるべきであり、それは美術を志す者が同じ時代の物作りに厳しい目を向けるという、骨太のアンチテーゼを世に知らしめる事にも繋がる。

 そこで登場するのが、高須健市である。私が彼を知ったのは随分以前の事ではあるのだが、互いのタイミングもあってこの時期にようやく個展が実現することになったのは、このような時代の中で少なからぬ因縁というか、意味を持つ様に感じてならない。彼は2009年の11月までは兵庫県尼崎市の廃墟マンションに自宅兼アトリエ兼スタジオ(ギャラリー)を構えており、つい先日大阪の中津に引っ越したばかりである。そのスタジオギャラリーの名を「ART SPACE ZERO-ONE」(旧:STUDIO & GALLERY ZERO)と言い、その制作・発表のスタンスはまさに時代に対峙する作家として、あるいはアーティストラン・スペースを運営する者の先駆者として、名古屋時代から常に異彩を放っていたことを知る者は少なく無い。

 彼の制作スタイルや扱う素材は多岐に渡り、「平面」や「立体」「インスタレーション」などという垣根を軽く飛び越え、どれもが自身の鋭い感受性と時代考察、その先のメッセージ性を兼ね備え、極めて印象深いものばかりである。名古屋造形大学(旧:名古屋造形芸術大学)時代には架空の粘菌を現出させ、学内で処分されるまでに至った過程を(それも実は架空の出来事なのだが)見せたかと思えば、その卒業と同時に現在の「ART SPACE ZERO-ONE」の前身である「gallery アートフェチ」を設立し、早くも今に至る流れを確立した。代表的な作品に、雑誌や絵本、インターネットのアダルトサイト、はたまた携帯電話をはじめ様々な商品の販促パネル(タレントが商品を手に微笑む等身大のもの)、生ビールの水着姿の女性のポスターに至るまで、主対象となるべき人物やキャラクターを黒く塗り潰した後の事象を、それ以前の内容を喚起・想像させながらも独立した出来事としてシニカルに見せる「Found / Lost」シリーズや、今回の個展で見せられる「SURFACE」のシリーズがある。ちなみにこの「SURFACE」はゴミとして廃棄されたチラシや印刷物を、有名なファッションブランドのロゴマークの型に切り取り、空間に整然と張り巡らせるものであるが、自身のスタジオギャラリーでも既に何度も試みている得意技でもある。折しもバレンタインを控えて、彼独特の批評性とユーモアが如何なく発揮されるのは間違い無いが、実はその奥底に潜む彼本来のロマンチックな素性も、また別の機会に明らかになれば楽しいと考えている。